『ホース・マネー』 深い哀しみの中で封印された記憶
私がこの作品を見たのは、もう東京では終了間際だった。フリーパスポート期間だったので、次から次へとシネコンで公開される映画を、それはもうたくさん見ていた。まるで映画のシャワーでも浴びるように。ただ楽しいかと問われたら肯定は出来なかったかもしれない。だんだん修行じみていたし。でも全然楽しくないのかと言われればそんなこともなかった。ただ言えることは、まるで映画作品を“消費”しているかのよう。そんな風に思うのはとても残念だったけれど、そう思わざるを得なかった。すぐに味の消えてなくなるガムみたいに、映画をクチャクチャやってペッと吐き出すみたいに。
その頃twitterでふと目にした何気ないツイートが気になり始めた。蓮實重彦botの一言だった。「どうやら、誰も本気で映画を畏れてはいないようだ。これでは映画芸術は終わってしまう」というような内容だった。
この一言は突き刺さった。“映画を畏れる”こと。そんな映画に出逢いたいなと思った。私にとって時に映画は痛快なだけのただの“娯楽”で、人に現実を忘れさせる魔法の飴玉。そんな面もあるもちろん無いとは言えない。私はそれでいいと思っていた。だけど一方で、目の前に今、何か途方もないことが起きている。自分はただただ立ち尽くすように見るしか出来ない。映像にはきっとそんな力もあって、途方も無く遥か遠くの地平に連れて行ってくれる。私はただただ憧れを覚える。
この映画はちょうどそんな“畏さ”を体現していた。
ヴェントゥーラは抱えきれない悲しみを抱え、封印すべき思いと記憶をその中に携えている。それらが迸り出るラストのシークエンスは見事だった。ここで目にする映像は表象であって表象ではなく、彼の心の中の“事象そのもの”のように思えた。
光と影は異様なほどにくっきりとしている。影はまるで、光を食ってその向こうへと引き摺り込むかのようだった。
ヴィタリーナ・ヴァレーラの目も、その鋭い眼光で違う世界を見ていた。途方も無い悲しみをたたえて。
こだわり抜いて作ったであろう光は、心を貫く光線のように容赦なくギラギラと注ぎこんでいた。
彼ら移民の哀しみは社会の中でほんの瑣末なものであるはずだった。ただ忘れ去られることを望まれ、風化を待つだけの存在だった“記憶”。
これらを取り上げ、容赦なくギラギラとした光を与える。闇の中から立ち上がってきた、非力な彼らの戦いを記憶に留めんとするかのように。闇はむしろ彼らに寄り添うかのようであり、光は彼らの戦いを擁護する守護天使だった。何よりも強い意志を、その強烈な光として感じた。
とても痺れた。
これは、日を追うごとに凄さを増すタイプの映像だった。
(『コロッサル・ユース』は二度チャレンジして二度とも沈没、『ヴァンダの部屋』『骨』もしかり。でもきっと次は寝ないで見ることがきっと出来る…多分w)
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