『我が至上の愛 アストレとセラドン』泥沼悲劇は途中から転調して…
“愛”について語る時に必ず付いて回る、”その醜い半身”というものがもしあるなら、きっとそれは”嫉妬”になるだろうと思う。たとえどんなに愛し合っていても、いや愛しているからこそ余計に、相手が思っているその愛の強さが、相手より強い事に不安を覚える寂しさ。より愛してしまった方が負けであると負い目に感じ、相手の愛を疑って問い詰めたり。相手が眼の前に居ない時に、どうしようもないほどに不安に駆られたり。愛=心の病に羅患してしまったかのように、嫉妬に狂わされることもある。もしこれまでにそんな経験をしたことは無い、信じているなら疑惑の念など抱かない筈であるという人が居るなら、それはまだあなたが愛の一面しか知らない、幸せな人なのかもしれない。
アストレは冒頭でセラドンの愛を疑うけれど、こうした恋人同士のスレ違いはおそらく時代性を問わず現代人にも普遍であるし、誰もが一度ならず経験した事があるだろう。物語はここから始まるので、その顛末を観客は見届けることになる。
現代劇をこれまでずっと描き続けてきたのに、いつも男と女を描いてきたロメールが、最後に何故こうした時代劇を選んだのだろうと考えながら、牧歌的な景色の美しさや衣装にホウと溜息をついた。でも何より、神話や中世の時代の人らしき行動のセラドンの放浪を目で楽しむ。幸せな時間。
女装したセラドンがアストレとイチャコライチャコラする下りにおいては、『十二夜』(恋人が男装しているのを知らずに相手を想い始める)を思い出した。しかしその前部分についても同じくシェイクスピアを思い出すのである。つまり恋人同士の愛がスレ違い、相手の死を悼み自ら死を選ぶ、『ロミオとジュリエット』だ。同様のスレ違いが怒りながらも、よく知られた悲劇に陥らなかったのがこの作品であり、それがそのまま十二夜的な喜劇の体現に変わっていくのである。なんと幸福な“古典劇”であることだろう。
余談ながら、『パリのランデブー』を見て知ったことだけれど、リュクサンブール公園にはギリシャ神話の“ガラテア”と“羊飼い”の抱き合う像があるらしい。もしかしたらここから着想を得ているのかもね。瀕死の羊飼いに恋して、自宅に閉じ込めちゃうというのもなんだかロマンチック。
2016/06/21 | :文芸・歴史・時代物 フランス映画
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