『アンジェリカの微笑み』 オリヴェイラの美意識に酔う
マノエル・ド・オリヴェイラがとうとう亡くなってしまったのは去年(2015年)の春。
106歳という大往生…。
その前年の『家族の灯り』を見て、なんという湧き出るような創造意欲だろうと舌を巻いたばかりだったから、悲しみもひとしおだった。
こちらの作品は『家族の灯り』より一つ前、2010年の作品だったのね。この後も『レステルの老人』という2014年製作のものがあるが、こちらは以下の特集で見れるらしい!楽しみ。
ウン、とりあえずまだまだオリヴェイラとはサヨナラ出来なそうだ。
ちなみに今度、「永遠のオリヴェイラ」特集がPart1は2016年1月23日[土]-2月5日[金]にやりますね。
さて、こちらの作品について。
フィックスの美しい映像を見て、「映像の美とはまさしくこれである」、「今自分は絶滅せんとする映画を見ているのだ」という気持ちになった。
絵画のようなアンジェリカの微笑みが心に残り、掴まれてしまう主人公と観客の私たち。アンジェリカの笑みは、モナリザのような聖なる微笑ではなく、蠱惑的な誘いかける笑み。
電灯は切れかけ、彼がそれを交換する。何か新たな区切りがやって来ているかのようだ。
以下、ネタバレで語ります。
『牡丹燈籠』のように、出会いを増すごとに、魂を奪われていく主人公。
写真家である彼は、ますます生気を失っていく。同時に、のびのびと生きる葡萄畑で働く農夫の姿も姿に収める。まったく対照的に。
魂だけの姿でアンジェリカと夜空を跳梁するシーンは、不思議なアナログ感と最新のデジタル感の融合に、歪な面白さを感じる。
またこれは、現存する最も古いとされるイギリスの十三世紀の詩、『郭公の歌』を思い出させるものになっている。
『郭公の歌』とは英文学で最も古いとされている詠み人知らずの文学であるが、やはり幽体離脱をして虚空を彷徨い、どこか知らない場所へ行って戻ってくる…という内容のもの。
自分はこれを思い出した。面白いと思いませんか?魂が彷徨うという夢が文字も知らない農夫によって語り継がれ、それが英文学で一番古いものとされている。つまり、魂の姿で別世界を見るのは、全世界共通のモチーフとも言えるのです。
オリヴェイラはこの境地に、その年齢で到達したのだろうか?
そしてその『郭公の歌』は、これら籠の鳥のモチーフにも繋がる。ワーズワースのカッコウをイメージする人も居るだろう。鳥は魂を表しているのだ。
だから写真家は鳥が居なくなることで驚く。アンジェリカが居なくなってしまったのではないか、と第六感で感じたか、もしくは「自分は置いて行かれた」という思いで焦りを感じてしまう。
開かれた扉とラストショットの閉じられた扉から、暗転のラスト。
私はこの暗転、真っ暗な中に閉じ込められる=扉が閉じられるショットを、
我々の“魂”が、“肉体”の中に閉じ込められるイメージであると解釈した。
この作品はまさしく、オリヴェイラの魂の信仰告白だ。
肉体に閉じ込められている“籠の中の鳥”は、魂の存在を信じない我々そのものの姿であると。
“光(=知識)も届かない”肉体は、ゲーテの今際の際の言葉、「もっと光を!」を思わせる。
暗闇に居る“こちら側”の人間である我々を示しているのが、ラストのブラックアウトのショットなのだ。
オリヴェイラは今回もまた、この作品に相応しいラストショットで、我々を置いてきぼりにした。
見事なラスト。
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コメント(6件)
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とらねこさん☆
確かに置いてきぼりにされたわ~
でも気持ちの良いおいてきぼり感。
それでも101歳で撮影できるパワーは凄いよね。
その「生」のパワーを感じる映画だったわ。
今晩は。
「とらねこ」さんのように高尚な見方はとてもできませんが、「不思議なアナログ感と最新のデジタル感の融合」と述べておられる点に共感するものがありました。まあ、オリヴェイラ監督の魔術に引きずり込まれてしまったというのでしょうか、本作は、一方で、おっしゃるように「今自分は絶滅せんとする映画を見ているのだ」という気持ちにさせられると同時に、登場人物たちが「反物質」について議論するなど現代的な面をも様々に保持していて、全体としてとても不思議な感じがしてしまいます。
ノルウェーまだ〜むさんへ
こんばんは〜♪コメントありがとうございました。
はい、「置いて行かれた」のは私たちでしたよね。
光も届かない暗転のショットに関する自分なりの解釈なのですが、
ゲーテの今際(いまわ)の際(きわ)の言葉、「もっと光を!」を思い出させます。
光=知識である、と言い換えることが出来るのですが、
魂を信じない我々は、肉体という暗黒の中にその魂が取り残されるイメージ、これを表現したものがあの暗転のショットであったと私は思いました。
オリヴェイラ、さすが。見事です…!
クマネズミさんへ
こんばんは〜♪コメントありがとうございました。
イエイエ、とても高尚だなんて。いつもただ夢中になって見た、そのまんまでお恥ずかしいです。
まさに、不思議なアナログ感とデジタル感の融合が妙な味わいで面白かったですね。
反物質に関する議論に関しては、「物質を遠心分離器に掛けて反物質を作り出す」という、物質/反物質の作用に関するお話でしたよね?
自分はむしろ、精神と魂を分ける事に関する心身二元論の考察を物理学的に裏付ける、別側面から見た論説のように思えました。
私はここで『森のカフェ』を思い出してしまいました!
巨匠オリヴェイラと、榎本監督のまさかの共通点、と嬉しくなりましたよ。
クマネズミさんと、このことについてお話が出来てとても嬉しいです。
お早うございます。
早速拙コメントに回答していただき、誠にありがとうございます。
おっしゃるように、「反物質」に関する技術者たちの議論は、加速器を使った原子核物理学の最新の成果を反映するものであり、それを聞いていたイザクが、「“反”物質」という言葉の響きからでしょう、アンジェリカの幻影の方に思いを馳せていました。これからすると、「反物質」に関する議論そのものは『森のカフェ』における清水教授らの見解(幽霊は実在しない)に、そしてイザクの思いは同作の主人公・松岡の見解(幽霊は実在する)に随分と近い感じがします。としたら、アンジェリカの幻影を映し出す本作と、洋子を妖精のように描き、さらには悟とか由美まで映し出す『森のカフェ』とは、類似するところがあるように思えてきます。まだ50代の榎本監督と100歳を超えたオリヴェイラ監督に、おっしゃるように「共通点」があるとは!「とらねこ」さんのご回答から、映画の奥深さを改めて教えていただきました。
クマネズミさんへ
こんにちは〜♪
こちらこそコメントありがとうございます。
そうなんです、物質/反物質の議論が展開し始めたところ、イザクがふわ〜っとテーブルから離れて、遠くを見るんですよね。おっしゃる通り、アンジェリカへと思いを馳せていました。
そうそう、昨日見た映画なのですが、「イスラム教もキリスト教も、永遠の魂について懐疑を抱いている」という台詞があって、ハッとしました。
オリヴェイラのこうした魂に関する描写というのは、おそらく彼の属する宗教圏からしてみると、とても大胆な描き方、ということになるのですよね。
日本にはすんなり受け入れられるファンタジーではあるけれども。
ちょっと話が外れるのですが、実はアンジェリカを見た日に、twitter関係で初めて会って一緒にお茶した方が、私を「くまねこさん」と何度か間違えて呼びかけ、
その日にクマネズミさんから『森のカフェ』に関するコメントをいただいて…
クマネズミさんのところへ遊びに行ったら、一番上に『アンジェリカ』が上がっていたので、嬉しくなってついこの共通点についてお話してしまいました。
おっしゃる通り齢半分の榎本監督が、オリヴェイラと同じようなテーマを選んだのですね。