ブラック・スワン #38
’10年、アメリカ
原題:Black Swan
監督:ダーレン・アロノフスキー
製作:マイク・メダボイ、アーノルド・W・メッサー、ブライアン・オリバー、スコット・フランクリン
原案:アンドレス・ハインツ
脚本:マーク・ヘイマン、アンドレス・ハインツ、ジョン・マクローリン撮影:マシュー・リバティーク
美術:テレーズ・デブレス
音楽:クリント・マンセル
ナタリー・ポートマン : ニナ
ヴァンサン・カッセル : トーマス・リロイ
ミラ・クニス : リリー
バーバラ・パーシー : 母
ウィノナ・ライダー : ベス
限定アイテムが欲しくて、公開初日に張り切って「黒鳥ファッション」に身を包んで行ったのだけれど、(結局もらえなかった!)、今頃のUPでだいぶ遅くなっちゃった。これ、こんなに分かりやすい話もないなーと思ってたんだけど、意外に私が感じたのとは全く違うように感じた人も居るようなので、えーい、言いたいこと言ってやれ!ということで今さらのUP。
よく言われているように、これはもう一つの『レスラー』だと私も思っている。何かに取り憑かれたように生きる人生。「生きる」上で、自分の周囲や、家族、愛などよりも、たった一つの物事に命を捧げるような。偏った人間の偏った生き方に、そうは割り切れない私たちが思うところはとても多い。そうはなれないからこそ、ロマンを感じる私たち。
私は『レスラー』の方がより好きなんだけど、その理由は後で述べますね。以下、ネタバレ。
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下
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バ
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『ブラック・スワン』は自分には、クラシック・バレエを描いたというより、バレエという身体芸術を至高の高みまで昇華させた、一人の芸術家の姿の方に重きを置いて描いていると思います。バレエでなくても良かったかもしれない。ただ、『白鳥の湖』の物語にまるで自分自身を重ね合わせるかのように、この物語の主人公の運命とを共にしてしまうので、元々がそうした内容である『白鳥〜』、これほど格好の材料もないと思えたり。ニナは、元々得意であった白鳥を演じた後に、自分の人格を分裂させてようやく黒鳥を演じる。自分の闇と妄想の中から生まれたもう一人の自分を殺してしまったことに気づき、人格統合が行われ、白鳥と黒鳥が一つになる。そうして自分をもう一度取り戻した後で白鳥を踊る。この最後の白鳥こそが、全てを超越した自分。物語の主人公同様に、踊り終わった後にホッとしてようやく解放される、といったストーリー。
私はこれは、偏狭な生き方を描いた、面白サイコスリラーだと思います。自分には、芥川龍之介の『地獄変』を思い出したりして。
『地獄変』の話を少しだけさせてください。主人公良秀は、葛藤した挙句に、自らの娘の命よりも、芸術家としての表現力を選んでいく。目に入れても痛くないほど溺愛していた娘より、何より芸術を取り、むしろ自分の人生、現実の生活と決別して、宿命に自ら目覚めていく。(無論、天皇の命令があってそうしたことではあるけれど、むしろ途中からは自らの業で顔つきさえ変わっていく、こちらの方が要。)この描写が恐ろしいのです。私はこの、命を削ってまで芸術を選ぶ、芸術至上主義である『地獄変』、これによく似ていると思いました。
芸術至上主義、と言ったけれど、これは才能溢れる人々の中でも、ほんの一握りの人にしか生きられない生き方だと思うのです。数多くの才能ある優秀な人が居たとしても、そこから一つ突き抜けた、ズバ抜けた表現力というのは、それは単に才能なのでしょうか?私は「才能」の一括りでは言い表せないように思うのです。むしろ、それはコンプレックスや、執念など、普通に幸せな生き方をし、全て恵まれて生きる人には到底及びもつかないものであるように、思えてなりません。
ニナは、普段から優秀な才能の持ち主であったので、この役さえ与えられなければ、そこそこ成功したダンサーとして、一生を終えられたであろうと思います。ここまで追い詰められなければ、狂気には陥らなかったかもしれない。多くの人はそうやって生きている。でも、『白鳥の湖』を演じるには、この物語の表現力の完成を見るには、彼女はその自分の殻を突破しなければ完成出来なかった。努力すれば叶うものではない表現力を得るために、自分の無意識下にあるものを引き出し、それと引き換えに正気を失った。
普通に生きていたら決して抜け出せないその「平凡さ」から、常軌を逸した表現力、という「天才の領域」、この狭間の瞬間を描いたのがこの作品なのだと思います。
『レスラー』同様に主人公の心理を表し出すカメラ、これがまるで生き物のように、ただそこに映し出しているだけで雄弁に物語るところが面白くて、ついつい見入ってしまいますよね。
ただ私は、『レスラー』の方が、人生の終りと覚悟を、悲哀のうちに描いているので、より味わい深いと感じた。人生の終盤に差し掛かり、「他に選択肢がない人生」の孤独であるとか。『レスラー』は、主人公の死をヒシヒシと感じさせながらも、最後まで描かないところがロマンを感じさせるけれど、それと対照的にこちらは、主人公の死まで描いています。何故なら、『白鳥〜』の最後がそうであるので、それと同様に、そこまで描く必要があったから。
でもその代わりに、ラストの余韻が余計に残るのは『レスラー』の方になってしまった。もしかしたら、主人公は死んでいないかもしれない、と希望的観測を勝手に下す観客もいる。心の中で、それぞれが物語の結末を受け止められる『レスラー』の方が、より物語の持つ幅が広くなるという。何が起こっても最後まで自分自身で居続けるランディの方が、力強く思えるのは自明よね。
あと、こないだ友人と話していたのだけれど、これ、男女のセックスを描いていないところがミソだ、なんて。オナニーや、レズシーンを描きながら、男女間のセックスが描かれないまま死を迎える。友人は、最後に子宮に貫通した鏡の破片が、まるで破瓜のようだ、と言及していました。私も、それは擬似セックスのようで、完全に一人で至高の高みに昇りつめる彼女の姿を表していると思いますね。彼女の「白鳥(黒鳥含め)」に相応しい姿は、セックスは介在しないところなのだと思うのです。
※ストーリー・・・
ニューヨーク・シティ・バレエ団のバレニーナ・ニナは、純真で繊細な“白鳥”と、妖艶に王子を誘惑する“黒鳥”の二役を踊る「白鳥の湖」のプリマドンナに 大抜擢される。しかし優等生タイプのニナにとって“白鳥”はともかく、悪の分身である“黒鳥”に変身することは大きな課題だ。初めての大役を担う重圧、な かなか黒鳥役をつかめない焦燥感から、精神的に追い詰められていくニナだった・・・
2011/06/27 | :音楽・ミュージカル・ダンス ダーレン・アロノフスキー, ナタリー・ポートマン, バレエ映画, ミラ・クニス
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コメント(30件)
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そうなんです、サイコスリラーなんですよね。
だからもう一度観てみたいと思いつつあの狂気の世界に触れるのを躊躇って実行出来ず。
たぶんこのまま観に行かずに上映終了を迎えるでしょう。でもそれでもいいかなと。
それだけのインパクトが今でも鮮烈に印象に残っているというのもスゴイ作品だったと思うのでした。
心底恐ろしいホラー映画でした。
バレエという素材を、まさかこういう方向で料理するとは、アロノフスキーの才気を感じます。
レスラーに似た構造ではありますが、こちらはよりエンタメに割り切った感がありますね。
これはバレエ関係者が話していたのですが、実際にプロフェッショナルなバレエの世界では、ダンサーのスキルが一目瞭然なので、役を奪い合うという事は殆ど無いそうです。
そう言う意味ではアスリートに近いのかもしれません。
かのんさんへ
こんにちは〜♪コメントありがとうございました。
あの狂気の世界をこれほど面白く、怖く描くところがとっても好みでした。
まさに戦慄の面白さ。
私も上映中にもう一度見ることはないと思いますが、WOWOWなどで録画したら、何度も見ちゃうと思います♪
ノラネコさんへ
こんばんは〜♪コメントありがとうございました。
そうですね!こちらの方がよりエンタメ的でした。
バレエの調理の仕方、山岸ワールドに似てるものがあるんですよね。
ノラネコさんも指摘されていた、山岸凉子の作品で『黒鳥 ブラック・スワン』というものもありますし、『アラベスク』でも主人公の母親があんな風だったりする部分もあって。
レスラーは確かに、相手と戦うんですけど、八百長の世界ですし、むしろ自分との戦いの面が描かれてましたね。自分との戦い、年との戦い、孤独との戦い・・。
役を奪い合う、なんてないと聞くとホッとします!クラシックバレエの世界でそれをやっていたら神経ボロボロになりそうですねw
こんにちは。
遅くなりました;
そういえば黒鳥な姿w?で見に行っていたはずなのに、記事UPなさってませんでしたね!
限定アイテムもらえた方々はどんなファッションだったのでせうか…
ところで。
そうなの~、この作品には男女間のセックスがない!
というか、自分じぶんジブン、っていうのが、なんかなあ、イマイチ期待したのと違ったわ;
ま、それがこの作品のキモなんでしょうが、白鳥かぶれの私にとってw「白鳥~」は、あくまでも人に対して自分を人として魅せるっていうエロスがないとーw
ホントに黒鳥になってもらっても鳥とはセックスできないし「ごめんなさいー」しちゃうわ;w
なんて冗談はさておき。
そうですね、どんな世界の方でもなにも逆境がなければ才能だけで頂点に立つ事はないでしょう。
「自分との戦い」。。。レスラー見てないんで、多分私もこの件に関しては本作品よりもレスラーに想う事がありそうな気がします…
さて、勝負下着でもつけて頑張るわ。ん、もちろん、自分との戦いよww
『』
すんません。空っぽのコメントをしてしまい。。。
鏡のモチーフの多様からラカンの『鏡像段階』を思い出したのだが、、、まあそれがなんなのか、よく知らないボクがいうのもなんですが、、、
変奏するストーリーが露骨にエディプス的であり、、、父親(ファルス)の欠けた極めて性的に抑圧された母子家庭に育ったところへ、ファルスまるだしな変態コーチが介入してくるという、、、
で、ボクの解釈は、最後までがんばって純潔を守ったなぁ、、、他者の欲望である鏡像をぶち破り、その破片、形状といいサイズといい男根的なそれ、で下腹部を突き破り、真っ赤な血を流す、、、
そんな擬似ロストヴァージンにより、白黒合一の最強キャラを産み出したその様は、マリア処女懐胎、、、と、いうことで、『レスラー』が、罪人こそ赦される、現代のキリストの受難劇を描いたストーリーだったということが、明らかになったのです。。。
シャーロットさんへ
こんばんは〜♪コメントありがとうございました。
そうなんですよね。ニナの白鳥は、王子への愛というものがスッカリ抜け落ちてるんですよね。
途中で私は、ニナはトーマス・リロイに対して、翻弄されていくうちに愛を感じるようになるか、・・と思って見たら、複雑な愛情(むしろ憧憬)を傾けるようになるのは、「そうなりたい自分」であるリリーの方でした。しかも、あのレズシーンは、後から彼女の妄想だったと知るんですよね。つまり、統合失調を引き起こす原因になっている。ここは、上手いなと思いますが・・。
でも、クラシックバレエがずっとお好きで、その世界に慣れ親しんでいらっしゃったシャーさんには、腑に落ちないものを感じてしまった、というのも分かる気がします。
私の場合は、愛を知らずに白鳥を完成させた、という解釈を興味深く感じてしまったのですが。それというのも、バレエに親しんでいないせいかも。
いやー、レスラーは、ムキムキなオヤジの痛々しい生き様なんですよ。極悪オヤジにシンパシーを感じてしまう私には、本気で入れ込むことが出来たのですが、美しいシャーさまがどう思うかは・・w
あっ、でも、感想聞きたいですー!見て欲しいな。
勝負下着?えっとーw
裏山&『』40歳さんへw
こんばんは〜♪コメントありがとうございました。
ああ、ちょうどいい!キミの感想も聞きたいなーと思っていたところなんですよ。探しに行ったんだけど、見つからなかったの。だからINDEX作って欲しいのにーw。
キミとの会話を、少し引用させてもらいました。この話一緒にしたの、面白かったな。またああいう話が出来たらいいね。
キミは、性が描かれていない辺りを美しいと思ったのかー。確かにその辺り、レスラーと違うところだよね。
いかにも神経質的に、性すら知らないままに白鳥を演じてしまうところが、一種の恐ろしいところでもあったなあ。
>ラカンの鏡像段階
ラカン派心理学は私は一冊も読んだことないので、サラっとwebで調べただけなんだけど。ま、キミもそうみたいだからいっか。
鏡像段階というのは、普通は鏡に映った自分を自己の投影として認識する、という意味だよね?キミが言いたいのは、鏡が割れて、それを突き刺したことで自己同一性を得たということ?
確かにそこでもう一度鏡を見てメイクするシーンがあるものね。そう思えなくもないかな。
エディプス的というのはちょっと違うかなと思う私でした。エディプスを名乗るならこうでないと、というのがハッキリしているんですよ。一目瞭然なんですよね。母ー娘・原型という、デメテルとペルセフォネーというものがあるけれど、この場合はそれにもちょっと当てはまらないなあ。
あと、ファルスは無意識下に見出されるものに当てはめることが多いですね。
こちらにも
>面白サイコスリラー
黒鳥覚醒、翼ブワッさーのところでデッビィーーール!!と
つぶやいたのはわたくしだけではない筈(笑)
アロノフスキー演出はケレン味が少々効き過ぎなところが良いですねー
ママンの病み絵が一斉に笑いだすとことか、鏡像がズレてくとことか
ベタさ加減がたまらんちん(笑)
ストーキングぐるぐるカメラも健在で、よ!やってるね!て感じで
何より、アロノフ!お前バレエにちっとも興味ないだろってのが(笑)
さて監督作『π』→『R for D』→『ファウンテン』→『レスラー』→『ブラックスワン』ときて次はどっち行くのか楽しみですね
個人的には『ファウンテン』方面にもっかい突っ込んで欲しいんですけどね
みさま
こちらにもコメントありがとうございます〜♪
>黒鳥覚醒の翼ブワっさー
最後、ここまでやるか!ってぐらいのデビル誕生っぷり、
面白すぎてブブーっと噴きそうになってしまいました。
ケレン味利かせすぎ!な、アロノフスキ〜印は健在でございました。『RforD』ラストの叩みかけに次ぐ、痛描写がまたキてるね〜!
ささくれは逆方向に剥がすなっちゅーの!
ママンの病み絵もこれ、ぎゅんぎゅんキテましたね。「あれ?これホラーだわ」って言われても仕方がないっていう
ストーキングぐるぐるカメラも、RforDからの!って。
>もう一度ファウンテン方向に
^^ノ それ大賛成。
『レスラー』で一般性獲得できたのをいいことに、「分かりやすい方がウケる」を勉強してしまたね、とも思うのですが、ここはあえて!w
しかし、ブラックスワンで「感動したわー」っていう意見が意外に多いことに、ちょっと驚いてしまいましたよ。
私としては一般性獲得は別にどうでもいいんですが、面白いからまた次が楽しみですし。
アロノフ好きー♪
“セックスは介在しないところなのだ”
「クラブで男とやってきた」というようなことを母親に言うシーンがあったかと思いますが、
あれは幻想部分ですか?
それとも対母親への嘘?
今日、新宿で叶姉妹(ミカさん)みた。。。
ボク、この映画の記事は書いてないのら。DVDで見てからと思って(それまでにラカンを勉強して)。。。
じゃ、内田樹先生の『寝ながら学べる構造主義』より、ちょうどよい抜粋がありますので、どうぞ。
ラカンの考えによれば、人間はその人生で二度大きな『詐術』を経験することによって『正常な大人』になります。一度目は鏡像段階において、『私ではないもの』を『私』だと思い込むことによって『私』を基礎づけること。二度目はエディプスにおいて、おのれの無力と無能を『父』による威嚇的介入の結果として『説明』することです。(P195)
あとはウィキのラカンの項目、鏡像段階論~父の名~虚勢あたりをずっとみていってもらえればいいのだが、、、
で、鏡像段階とは、内面が不統一のまま先に視覚として自己の統一性が実現されてしまう。そうして社会生活を営み始めると、この鏡の役割が他者によってになわれてしまう。。。主人公がものすっごいみんなから見られる職業(花形プリマ/あるいは元人気レスラーも)であったわけだが、明らかに彼女は他者の欲望を引き受け、分裂している。
内田樹先生の引用の『『正常な大人』になる』のところに注目してほしいのだが。そのために『父の名』(象徴的掟)が与えられ、自分の全能感が否定され、果ては言語による象徴界へ入っていく、、、『正常な大人』になるためには。。。
『レスラー』もそうだが、『ブラックスワン』も『正常な大人』なんかになっちゃいない。だから言語による象徴界にはいかず、肉体だけを駆使して想像界に羽ばたいて、そこで完結するわけですよね、命と引き替えに。。。『正常な大人』になることの拒否ですよ。ニューシネマだ。
ただ、ニューシネマにあったラストの悲壮感、みじめな感じがまったくないのが、素晴らしいと思うのですが、それは主人公が特権的な見られる職業だからなのかなぁと。。。このラストの死に際に不思議なグローリーに包まれて祝福せずにはいられない悲劇という構造を、市井の一般人でもできるのかなぁ、、、ということをボクは次回作にチョー期待しているのだが。。。
typo?さんへ
こちらにもありがとうございます。
この作品は、主人公本人の主観視点で物語が進み、その現実に幻想が混じるので、「見ているものが現実なのか幻想なのか」判断に困りますね。
でも、「現実に起こったことが、台詞のみで割愛されている」ことはないでしょう。
あのシーンは「母親に向かって嘘を言っている」で正しいと思います。
私ねー、これかなり早く見てしまったせいか、
ラストが思い出せなくて (^_^;)
これってレスラーみたく、どっちでもいいような感じじゃなかったでしたっけ?
死んじゃいましたっけ? (→すいませんw) 思い出せないーーー
・・・なんですが、とにもかくにも、ぐいぐいって引っ張られちゃいました。
今となってはニナの狂気しか残ってないのよね。
でも芸術家なんて多かれ少なかれそんなもんじゃないでしょうかねえ・・・。
完成させるためには自分を変形させてまでの執念がないとだめなのかもなーって思います。
ところで・・・ いつもコメント下さる時に、タイトルに「●」って入れてるでしょ?
あれって何か意味があるの? いつも訊こう訊こうと思ってなかなか忘れるのでこの機会に。
裏山&40歳さんへ
こんばんは〜。再びコメントありがとうございます♪
んー。ラカンの鏡像段階という解釈に当てはめて、ご自分なりに考察なされたのですね。なるほど。
ただ、内田樹氏の著作を全て信頼してしまうのは、どうかなあ?私だったらしないかも、なんて思ったりもしますね。
http://blog.livedoor.jp/knowledgephile/archives/2750919.html
心理学用語を、狭義の意味で該当する部分だけを選び、それに物語全体を当てはめて解釈していく方法は私はあまり取りません。
もしくは、よっぽど慎重に取り扱わないと。
それはその途端に、「全ての道は全てに通じる」ということになりかねない、そんなやり方だと思うからです。
『レスラー』とこの作品の主人公を、「肉体だけを駆使して想像界に羽ばたいて、そこで命と引換に完結する」という解釈にしてしまうのは、正直あまりに狭義なところに押し込んでいる気がしてしまうなあ。
そこから唐突にニューシネマへと飛んでいくことにも、自分のテーマだけを追っている、というだけのような気がして。
私はちなみに構造主義について、この人の記事を参照しました。内田樹氏の著作に関しても、別の著者の意見と比べているところが面白かったし。
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/27993329.html
rose_chocolatさんへ
こんばんは〜♪コメントありがとうございました!
えっと、ブラスワの主人公は、舞台上で、「白鳥の主人公が死を迎えたのとその同じタイミングで」落下していきながら死んで行きましたよね。
『白鳥〜』の物語と呼応して(白鳥、黒鳥、白鳥の死)、全く同じそのタイミングで同じ道筋を辿っていき、完璧に演じ切れたという。
ちなみに、伝説的バレリーナのためだけに振りつけた、という「瀕死の白鳥」のこともチラっと頭によぎりました。
白鳥って、元々どこか薄幸なイメージがありますよね。
あ、コメントの「●」は、全然意味はないです^^;
何も書かないと、「タイトルなし」になってしまうのが寂しいので、何か入れようかなってw
タイトルを考えるのがちょっと面倒、というだけの話でしたー。スイマセン。
あ、以前の楽天だと、短いタイトルは入れられなかったので、gooブログは●が入れられて嬉しいですw
>「現実に起こったことが、台詞のみで割愛されている」
クラブで、はっとして我に返り逃げ出すワケですが
あのシーン、既にやってしまっているともとれるのでは?
いや、内田樹先生の著作を全てだなんて、、、たった4行引用しただけで。。。
>ラカンの考えによれば、人間はその人生で二度大きな『詐術』を経験することによって『正常な大人』になります。一度目は鏡像段階において、『私ではないもの』を『私』だと思い込むことによって『私』を基礎づけること。二度目はエディプスにおいて、おのれの無力と無能を『父』による威嚇的介入の結果として『説明』することです。(P195)
↑この部分にあやまりはないと思うのだが。あと構造主義の話も別にしてない。ボクは映画の話がしたい。『ブラックスワン』と『レスラー』の話を。。。
>自分のテーマだけを追っている、というだけのような気がして。
たしかに。。。だからボクのブログはまったくコメントが来ないのかなぁ。。。
でもね、もっとそれぞれ自分のテーマを追わないとおもしろくないじゃん。映画の感想なんて、たいてい似通うんだから。評論家じゃないんだし、まちがっていいんだから。ボクは人と同じ感想なら、書いてもしょうがないなぁ、って、無理してでもへんなブログ書いてるよ。。。
で、コメント欄は狭いので、だいぶ言葉が足りなくて、それはこちらが全面的に悪いのですが、ボクが言いたいのはこういうことです。。。
『レスラー』というのはダメ人間がダメ人間ゆえに破綻したストーリーだったと思ってる。ありがちなドラマだと、リングに帰っていくエモーショナルな動機づけが描かれてしまいがち、、、病気の息子がどうとか、殺された親友の敵討ちとか、知人が莫大な借金を背負って金がいるとか、、、
『レスラー』はその逆をやるでしょ。リングに帰らなくていい動機を3つ用意、ストリッパーと結婚し、娘と仲直りし、新しい職場でがんばる、、、で、その3つをことごとく破綻させていくことで、帰る場所がリングしかなくなるという。そこ大事じゃないの? 2と3は完全に自分が悪いわけで、とくに娘との約束の日に女と酒飲んでてすっぽかすなんて、、、そういう人間の意志の力の軽視みたいな、そこが重要だと思うのら。
なんか、どうしようもない不良たちが、がんばったら甲子園いけたとか、そんなクソみたいな映画いまさらどうでもいいじゃん。がんばったって、どうにもならないことのが多いんですよ。
で、その人間の意志の力の軽視という主題(もちろんボクの追ってるテーマだが)が、この『ブラックスワン』においても通低していて、いやむしろ増強されていてわが意を得たよ。遠回りしましたが、ラカン、ラカン、といっていたのはそのためです。
ニナのふるまいは完全に禁治産者でしょ。『レスラー』では性格的な問題だった意志の無力さを、『ブラックスワン』は心の病気として、逃げ場のないとこに追い込んでいったなぁという。
>『ブラック・スワン』は自分には、クラシック・バレエを描いたというより、バレエという身体芸術を至高の高みまで昇華させた、一人の芸術家の姿の方に重きを置いて描いていると思います。
だからこの部分、はげしく反対。ランディを一人のプロレスラーとしてでなく、ただのダメ人間として見たボクは、ニナも一人の芸術家としてでなく、ただの心の病んだ人としてしか見られなかった。。。だ・か・ら・感動した。ダメ人間や心の病んだ人が、最後にキラキラ輝く映画なんて、そんなにない。
>ニナは、普段から優秀な才能の持ち主であったので、この役さえ与えられなければ、そこそこ成功したダンサーとして、一生を終えられたであろうと思います。
これも眉唾。あきらかにはじめから壊れた家庭が用意されていたのだから。彼女は母親のマリオネットだったわけでしょ。しかも異常に性的な禁忌まで科された。この後者はとくに大問題で、とてもそのまま一生終えられたとは思えん。。。
『地獄変』と比するのも反対。はたして彼女の中に、芸術うんぬんという崇高な考えがあったろうか。まずは主役の座を射止めたいという、石原慎太郎的に言うところの『我欲』だろうね。で、枕営業に行ってコーチのセクハラ難題に振り回され、、、鏡像のようなライバルに嫉妬し、、、そっからはもう明らかに病んでいく(最後まで。ジェットトコースターのように)、、、完全に自分を見失い、信用できない語り手となり、幻覚にまでさいなまれ、そのヴィジョンを観客も共有することを余儀なくされ、、、
『ブラックスワン』を芸術至上主義とみるならば、『レスラー』をプロレス至上主義と取るのと同じなわけで、、、まあ、そっちの方が大勢を占めているようなので、またしてもボクひとりだけが、まちがっているのかなぁ。。。フフフ。。。DVDでたらもっかい見よ。。。
typo?さんへ
>あのシーン、すでにやってしまっていると考えられるのでは?
飲んでた同じグラスを持ったままで?
あー、それが自分は「省略されているとは考えていない」という部分です。
ちなみに、他の皆さんはどう思いますか?
あの麻薬は、妄想が作用し始めるのに功を奏しているとは思います。
あの後ミラ・クニスとニナの家に行き、その後レズシーンをしますよね。妄想部分はそこですね。
裏山&40歳&5日さんへ
こんばんは。コメントありがとうございました。
そうそう、自分のそれぞれのテーマを追えばいいと思いますよ。それでも時々人とコミュニケーション取りたくなったら、こうやってコメントくれればいいし。
私は最近はコメント少ないの、気にならなくなってきましたね。
まずレスラーだけど、私はランディはダメ人間で合ってると思いますよ。でも、「ダメ人間だからストーリーも破綻している」とは思わないのね。
「ダメ人間」ではあっても、「自分のやりたいことをやった」人だったから、私には羨ましく思えるんですよ。自分の人生と言っても、多くの人には生まれてから死ぬまで自分のやりたいことだけをやって生きていく、って難しいから。
普通は自分ひとりで生きていくのではなく、責任を負っていくことによって、だんだん自由でなくなり、束縛されていく。妻のため、子供のため。親のため。世間の目のため。
ランディは、自分の好きなことだけをやり続ける努力はするけれど(そこには強い意志があるから、それは出来るけれど)、それ以外のことはほとんど出来ない。興味の方向性がそちらに向く時だけ、都合よく愛を語られても、生活していくには持続性が大事になってしまうから。それは意志の弱さではなくて、性格的にそうした生き方が向いてない人物、と描かれてますね。
でも、家族を大事に出来るタイプの性格ではないからといって、ただ単にダメ人間、と言い切れますかね?少なくても自分のやりたいことを仕事にして、そこで頂点を築き、人気も得ていて、体を張った仕事の特徴として、(そればかりでなく、もちろん人気商売でもある)、多くの人が年齢と体力に負けて辞めていく中、好きだからこそ、そして「その中でしか生きていけないと思っているからこそ」辞め時が分からない。多くの人は、もっと先のことまで考えて、適度に家族人間として生きるのに、それは選ばなかった。後から回復しようとしても、もう娘との縁は、微妙な年頃だけに難しくなってましたよね。
ブラックスワンの主人公は、完璧性を求めたがゆえに精神すら狂わせていきますよね。自分の表現力を完成させるために、自分に足りないものを追求した挙句、限界ギリギリまで追い込まれていく。
「生き甲斐がなくただその日を生きているだけでは、虫けらと同じ」とは、『ガラスの仮面』の中の月影先生のセリフでしたよね。なんのための人生か?っていう。
ニナも、自分が生きるということより、ちっぽけな人生より、妄執のために、芸術の完成を得てしまう。
崇高な目的であるかないかは関係なく、自分に与えられた仕事を完璧にこなそうとした挙句に、自分の芸術の犠牲に自分自身がなってしまいますよね?
そこが私は『地獄変』と共通していると思うわけですよ。芸術至上主義であるとしている理由はね。
あと、母親からのプレッシャーですが。私は、あの母親は、正常な精神状態でさえ見れば、娘をよく躾ける、心配性の母親像とそれほど違いがないと思いますね。もちろん、ニナは映画中で少しづつ狂ってしまっているので、母親のそんな過保護で余計、精神的に追い込まれてしまうのだけれど。
でも、爪をよく噛む癖があったり(精神的に大人として完成されていないニナ)、自傷癖があったら、母親として心配するのはある程度当然だと思ったりして。門限も、厳しい躾をする家庭ならでは。母親が自分の娘に、自分の願望を投影するのって結構珍しくない。特に若い年頃の娘にとって、母親の存在というものが結構難しいものだったりするのは、女にしか分からないものかな?
クラシックバレエのダンサーって、年齢が本当に小さい頃からずっと厳しい訓練を受けて来た人でないと、なれない職業の典型ですよね。幼児教育が厳しい家庭が多いのは頷ける。それも、本当に一部の人しかプリマにはなれない。もちろんニナも努力したし、才能もあったと思うけれど、母親の力がなくてはなれない職業と言えるんじゃないかな。
「こういう家庭で育てば精神病になるのは当然」という風には、私は思わないんですよね。
やあ。もう疲れたぜ。。。でも最後にもうワン・ラウンドじゃ。。。もう誰も見てないと思うが。。。映画とは何か? 映画は戦場だ!!(サミュエル・フラー)。。。
>ダメ人間だからストーリーも破綻している
ごめん、ここは違うよ。ダメ人間だから(人生が)破綻した(という内容の)ストーリー。って書きたかった。。。
>「ダメ人間」ではあっても、「自分のやりたいことをやった」人だったから、私には羨ましく思えるんですよ。
>ランディは、自分の好きなことだけをやり続ける努力はするけれど(そこには強い意志があるから、それは出来るけれど)
もう一度くりかえすのだが、ランディの『やりたかったこと』は、プロレスをやめて(ドクターストップかかったから)、ストリッパーと結婚して、娘と仲直りして、新しい職場を得て、新しい人生を始めることだったと思うよ。それがひとつもできなかったがな。。。
ついでにランディが、強い意志でプロレスをやってきたような描写は、ない。いまのランディから察すると、そこに強い意志があったとはちょっと思えない。ずば抜けた身体能力とキャラクターでトップに上り詰めたが、加齢とともに、、、ってことなんじゃないのかな(だいたい記念試合であのキャパの会場ですよ、どれほどのスターだったのか)。それは『ブラックスワン』の中で、ウィノナ・ライダーが担ってるポジションに重ねられてるんじゃ、ないかな。肉体が売りの商売ゆえ、老いて忘れられる、、、それが『ブラックスワン』ではニナをしてあの早死に駆り立てるとこに、つながっていく。。。
あと、ボクは家庭を大事にして生きる生き方と、ランディのような自分のやりたいことを追求する生き方と、つまり仕事と家庭みたいな二項対立で考えることに意味はないと思うのだよ。人生いろいろだし。好きなこともやりつつ家族も大事にする生き方もあるし(例:手塚治虫)。フランスでは『複合家族』ってのが進んでるそうなんだが、知ってる?
そして何か偉業を成し遂げたからって、それで立派だとも思わないんですよ。ずーと毎日プリンを食べ続けた50年(一日も欠かさず!!)とか、そういうのも偉業だと思うし。だから、主人公を、ステージに立つ特殊な人、とくに肉体が売りの、に限定した物語作りゆえに、ボクの見たラストの廃人キラキラがもたらされているとするならば、、、大きなアドバンテージなのかなぁ。と、名もないダメ人間を扱った、ニューシネマなんかと比べると、思っちゃう。
で、『ブラックスワン』は、、、これは『レスラー』と似たようなストーリー構造を持ちつつも、擬似ドキュメンタリー風だったそれとは別に、『インセプション』ばりのラビリンスを用意した、ポストモダ~ンな映画になっていたわけで、、、だからもう一回くらい見ないとなんともいえないのだが、、、
それでもボクはやはり、母親がキーパーソンだと思うね。ランディと同じく、ニナも晴れ舞台の会場(=公開処刑所)に、いかなくてすむ選択肢が与えられるのだが、、、
その部屋にいたのは、母親だったじゃん。寝坊しても起こしてくれなかった。
あれは、母親が娘の体を大事にしたと考えられるとともに、娘がプリマとしてステージに立つのを妨げたとも取れそうな気がするんですよね。。。穿った見方かもしれんが、自分の操り人形としてずーっと手元においておきたい、、、みたいな。
その部屋から出て行くのが、主役は自分よという、ここ数週間悩まされてきた強迫観念によるものと同時に、そこに母親を残していくところから、母親からひとり立ちしたい、という風にも、見えないですかね。。。
なぜなら、、、舞台ではじめてマリオネットの糸を絶ち切り、自分の踊り=黒鳥(母親からは白鳥として育てられてる)を踊りきるのだから、、、同時に、生ける鏡として自分を重ねたライバルを刺した(ことで暗黒に染まり黒鳥が踊れた)鏡の破片で破瓜し、子どもから<<大人>>の女となり、主役の重責と母の呪縛からも解き放たれるのだから(&DIE)。。。
ごめん、ぬけた。複合家族のあと、
>でも、家族を大事に出来るタイプの性格ではないからといって、ただ単にダメ人間、と言い切れますかね?
これへのアンサーなのだが、せっかく娘といい関係を取り戻したのに、大事な約束の日の前日に、女と酒を飲んで二日酔いで約束をすっぽかすから、ダメ人間だと思うんですよ。
裏山&40歳と一週間さんへ
ふたたびコメントありがとうございます。
えと、ランディのやりたいことは、第一にプロレスだった。私はそう思ってるのね。
肉体を酷使する職業の中でも最もキツイ、反則バンバンありのプロレスを長年やってきて、なのに意志を強く持ってやって来たと思わない?・・・のは私には不思議。
肉体労働の仕事をしている人だったら、それが普通の仕事だとしても、年を取る苦労というのは想像出来るものかもしれませんね。そこのところ、私たちにはどれほどの苦労が必要か、ちゃんと分かっているとは言えないのかもしれないけれど。
その第一のプロレスからどうにもこうにも引退せざるを得なくなって、そこで別の道を選ぼうとした。ではありませんでしたか?
身体がボロボロになるまでステロイド剤を打ち続け、どうにかして続けようとしたけれども、それが叶わなくなってようやく。
というか、そこまでプロレスに打ち込み過ぎたからからこそ、妻からも娘からも愛想つかされてた(物語中の話ではないですよ、設定ね。いちいち断らないと混乱するようだから)。
恋人になりたいと選んだ人も、熱烈に恋に落ちた相手というより、くされ縁のストリッパーだったり。どこかランディと「同類」なんですよね。いくつになっても同じ仕事を続けるというところから、同じ匂いを感じる相手。
この人だったら自分を分かってくれるのでは、と思える相手。
それから、自分の素行の悪さから疎遠になっていた娘。別の仕事。
これらって「第一希望」で「やりたいこと」、「自分が生きている!」と実感できるもの、対象だった?
私はそうは思わない。そうではなくても、「そのために生きる」という程ではなくても、「自分を生かす可能性のある」モノ達だった、と思ってる。
「二項対立のようにして選ぶべきものではない」どころか、ランディにとってプロレスほど価値のあるものとは思えないと私は思ってるんですよ。
だからこそ、娘との約束もアッサリ忘れて、目先の欲望に従ってしまって。もちろん、やけくそになる理由はそれ以外にもあったけれども。
娘との大事な約束を簡単に破ってしまったランディを、私もダメ人と思いますよ。一時の欲望に任せて、大事な約束をすっぽかすなんて、実際ダメ人間ですよ。そういうタイプの人間を、高潔なキミには理解できない?私は、こういう人って、意外に世間にも多くいると思いますね。
たとえば、妻が身重な時に、浮気をしたり、ソープに行くようなタイプ。残念ながら、結構居るらしいですよ。(こういう時、夫はセックスを断られたりすることが多い。)
で、私はもちろんそんな男は嫌だけど、自分が男だったら、果たして我慢出来るかなあ?なんて思ったりもする。
意外にそんな人は、不器用にバレたりはせず、きちんと隠しおおせてたりすると思うんだ。子供がいざ生まれたら、意外にいいお父さんとして慕われてたりしてね。
>『ブラックスワン』の中で、ウィノナ・ライダーが担ってるポジションに重ねられてるんじゃ
これは同感ですね。アロノフスキーが語るように、もともと、この作品のアイディアは一つだったものを、レスラーと二つに分けたらしいし。
おっしゃる通りと思います。
で、ニナの母親の話ですが。
確かに、大事な本番の日に起こしてもくれなかったし、最後は出演することすら反対してた。
もちろん、母の嫉妬もあっただろうけど、あの時すでにニナはどう考えても精神病だった。普通ですよ。親として。しかも実際どうなったか、っていうと、ご存知のとおり。娘を永久に失うことになった。
本当だったら、あのまんま精神病院に連れて行ってもおかしくなかったと思うぐらいですよ。私はね。
母親が鍵になってることに、もちろん否定はしないですよ。でも、それはあくまでも要因の一つですよね。大きな要因だけど。
>飲んでた同じグラスを持ったままで?
「持ったままで」とかはあんまり重要じゃないかと思います。
むしろ、ニナが、飲まないお酒を飲むのも、ドラッグを結果としてやってしまうことになるのも、
「ドラッグやSEXをしてみること」が表の人格からも、
そうした方がいいのかもしれないという
リリーに対するものがあるからで、
裏の人格の影響が出始めるところもあってやっている
というのが(このブログでの記事とは)逆に、
自然な流れだと思います。
わかった。言葉尻だけとらえてしりとりみたいにやってくと、論点がずれてくるんだよ。論旨にもどってもう一回だけ言うよ。
ボクはダメ人間がキラキラ輝くから素晴らしいって言ってるんだよ、最初から。。。そして何よりも素晴らしいのは、アロノフスキーの語り口だって言ってるんだ。ランディ個人がどんな人であろうと、正直いえば、どうでもいいんだ。でも愛すべきダメ野郎だと思ってるけどね(肉屋でのぶちきれ方が)。あの肉屋でぶちきれたとこと、『ブラックスワン』で鳥人間になるところだなぁ、、、映画館で爆笑した。立ち上がって拍手したいくらい。。。
物語構造の中で、意志の力が軽視されているのが、さんざん見飽きたスポーツ映画と一線を画しているんじゃないか。これは新しい発見なんじゃないかとすら思ってる。これももちろん褒め言葉。『意志』って単語が適当でなかったかもしれないが、それは『ブラックスワン』とセットで考えてるので、斟酌して。そこにキミがランディの意志論もってきたんでしょ。そこに乗ったとしても、やっぱりここは肯定できない。
>ランディは、自分の好きなことだけをやり続ける努力はするけれど(そこには強い意志があるから、それは出来るけれど)、
>肉体を酷使する職業の中でも最もキツイ、反則バンバンありのプロレスを長年やってきて、なのに意志を強く持ってやって来たと思わない?・・・のは私には不思議
ここはやはりちがうと思う。なぜならば、、、アロノフスキーがそう描いてないからだよ。プロレスラーはじっさい、過酷な仕事なんだろうが、でもそれを描かないでしょ。ずーっと時間をかけて、プロレスがいかにインチキか、勝敗は話し合いで決められている。抗争を繰り広げているはずの敵と、いっしょにホームセンターに凶器に使える小道具を買いに行く。反則バンバンありは、自らカミソリで額を切っていることを暴露。。。
だからランディがプロレスを強い意志の力で続けてきたと、解釈してはよくないでしょう。昔から、インチキプロレスを、愉快な仲間たちと、惰性でダラダラやってきた、家族なんかほったらかしで、と解釈してあげないと、ボクたちの好きなランディがランディでなくなってしまうような気がするが。。。
最後のリングに上がるとこだが、、、あそこまったく練習してないでしょ。してる描写がない。最後の大事な試合なのに。ロッキーだったら音楽かけてマラソンして生卵飲むところだよ。あの練習の軽視ね、これは『ブラックスワン』にも通じてる。フツー、ライバルが現れたら必死に、練習するじゃん。必殺技をあみだしたりして。。。練習しないでしょ。だからこれは『私はこれは、偏狭な生き方を描いた、面白サイコスリラーだと思います。』でいいでしょ。あはは。面白サイコスリラーって。。。
typo?さんへ
おはようございます。何度も来ていただいてスミマセン。
ドラッグを入れた飲み物を飲んだ後、ぼうっとした。
そこで意識が途切れた、というシーンでしたよね。
それが一瞬なのかそうでないのか分からない、私は一瞬だったと判断しているけれど、typoさんはもしかしたらその間にSEXしてしまった可能性があるのではないか?ということでよろしいですか?
おっしゃる通り、ニナが役柄を理解するために、やってみたことのないことをすることは、表の人格に変化を及ぼすのではないか?と想像してしまうシーンでしたよね。それはもちろん否定しません。
私は一瞬意識が飛んだだけだった、と判断しました。
その理由は、何度も言っていますが、この映画の描き方にあって、
「主人公本人の主観視点」の中で物語が進み、「その現実に幻想が混じる」ので、「見ているものが現実なのか幻想なのか分からない」作りになっている。
けれども、「現実に起こったことが、割愛されている」ことはないと考えているのですよ。
私は、描かれていたニナのレズシーンを妄想だったと判断しています。そして、描かれていない(もしくは省略されている可能性のある)セックスシーンも存在していない。こう思っています。
裏山&40歳と10日さんへ
こんばんは。昨日は呑んでたよ。『ロックアップ』ちゃんと見たの初めてだったけど、面白かったね。
この話、飽きたよ・・・
>ボクはダメ人間がキラキラ輝くから素晴らしいって言ってるんだよ、最初から。。。そして何よりも素晴らしいのは、アロノフスキーの語り口だって言ってるんだ。
それでいいと思いまーす。
で、終わると思ったらやっぱり意志論の否定w
今日、ジムで筋トレしながら思ったんだけど、これね、ちょっと重くするだけでだいぶ辛いんだ。筋肉をちょっとつけようと思うだけなのに、ものすごい努力をしないと意外になかなか筋肉ってつかないんだよね。
キミは筋トレとかしたことある?
プロレスの反則技の裏話を、たくさん挙げてあるけど、それは「仲間内でグダグダ適当にプロレスをやっている」という描写だとは私は思わないんだよね。
ホームセンターで反則技の小道具買ってたり、自分のカミソリでコメカミを切るシーンがあったり、ステイプラーでバチン!とやるような反則シーンがあったからと言って、プロレスを馬鹿にしているという風には受け取ってなかったんだけどなあ。でも、そう言って怒ってる人居たから、キミもそのタイプ?なのかな。
別に反則があろうがなかろうが、肉体的にものすごくキツイのは見て分かるじゃないか、と思うんだけど。そうじゃない人が時々居るのかな。
それとも、本当のプロレス好きには、やはり踏み込んで欲しくない領域で、本当は悪役と正義役とか、プロレスラー同士が仲良かったりすると、ガッカリしてしまうのかなあ。だとすれば確かに、プロレスファンを裏切る行為だったのかもしれないね。
こういう行為を描いたからと言って、プロレスへのランディへの強い意志も、プロレスへの思いも通じないとは、アロノフスキーも思わなかったんじゃないかな。
プロレスが八百長だからと言って、大変さには変りないことを、みんな分かってるし、分かってて楽しんでいると思ったから意外だね。
それとも、私たちが頭脳労働しかしたことがなくて、頭で想像するだけで、肉体を酷使したことも肉体労働をしたこともないから、それでよく分かってないのかもしれないね!
ロッキーみたいに生卵飲まないから、意志がないとか・・
あと、ニナにとって大事なのは、単に練習ではなくて、表現力だったんでしょ。当然ながら技術的にはとうに完成していて、それ以上のことを得ようとしていた、それ以上を得るために何でもしようとしていた、そういうことだったと思うし。ていうか、もう記事にも書いてあるし、何度も言ってることなんだけど。
DVD で画面をみながら話をしないと、ダメの様に思うので、退出します。
typoさんへ
私もDVDで見直してみようと思います。2,3年後とかになってしまうかもしれませんが・・。