NYスタテンアイランド物語 ▲160
’08年、アメリカ
原題:Little New York
監督:ジェームズ・デモナコ
脚本: 〃
イーサン・ホーク サリー
ヴィンセント・ドノフリオ パーミー・タルゾ
シーモア・カッセル ジャスパー
ジュリアンヌ・ニコルソン マリア
TIFFにて鑑賞。
今回、監督のジェームズ・デモナコ監督がQ&Aに登板。
監督の話がメチャクチャ面白かったので、その辺りもレポしていこうかなと。
監督に言わせれば、NYスタテンアイランドは「NYにあって、最も存在感の薄いマイナーな場所」(笑)。
「NY州も要らないからと、もう少しでインディアナ州に譲渡されるところだった」などと言って、場内から笑いが漏れていた。
しかし結局譲渡にも至らず、今なおNY州に組み込まれ、マフィアが多くはびこる悪名高い場所になっているという、そんな場所だとか。
このNYスタテンアイランドで行われたある一つの事件。
3人のストーリーはそれぞれに独立し、それらが交差してゆく。物語の様相は、各の視点から語られる。この独立したパートが、次第に物語の核心に触れるように描かれる。
いわゆる「マネーバッグ」をめぐる3つの話だ。「強盗の素人」と、「盗まれる側のマフィアの親分」。そして、それに密に関わる「第三の存在」。
この第三の存在というのが、この物語でのキーワードになる。
マフィアではなく一般人であるのに、聾唖のブッチャー(肉の解体作業を行う人)であることから、マフィアに目をつけられ、ここ、NYスタテンアイランドで一番のハバを利かせている、マフィア専属の死体処理人にさせられている。
ハリウッド王道的なサスペンスタッチではないところが面白い。コメディタッチで、軽妙なジョークが散りばめられ、どこかクールな印象。
さらに言うなら、インディペンデントらしい風味が感じられる。
スタイリッシュに描きすぎることなく、人間味が加味されているところが面白い。
出てくる人々はどこか愛らしいマヌケっぷりをしている。マフィアの親分ですら、一大決心をして団を大きくしようと語った途端、部下から見放され、命を狙われる始末。彼もまた、典型的な「マフィア」ではない。
全て終わると、割り切れない人生の不平等さ、不条理性が残る。
この後に残る何か、これが映画には欲しい要素だと思ったりもする。
元々、、脚本家だったジェームズ・デモナコ監督。(『交渉人』)他にもTVシリーズで脚本として活動していて、今回長編映画の監督は初だという。
私たちの前に現れた監督は、かなり見た目的にも若く、快活で、話がメチャメチャ面白い人だった。
サービス精神が旺盛なのか、まだ若く、こうした華やかな舞台を経験するのがまだ新鮮に感じられるのか、とにかくいろいろな質問にちゃんと答えてくれる。そんな印象だった。
答え方も気が利いていて、何より言うことがとても面白いの。
今までこうした席で見た監督の中で、一番面白かった。(二番は三池さん)
なんだか、今後も応援したくなってしまったよ。
まず、ヴィンセント・ドノフリオ。監督曰く、彼は今までマフィア役をやったことのないイタリア系俳優だったから、この役に起用したのだという。
ハリウッドでイタリア系俳優というと、みんなが一度はマフィアの役をやったことがあるそうだ。ドラマで、そんなのがあったらしく(笑)、それにみんな起用され、マフィア役を経験してしまったらしい。
でも、ヴィンセント・ドノフリオだけは、そのオファーを断ったらしい。彼は、そうしたイタリア系マフィアの描かれ方が、単調でありきたりで、面白くないと思っているそうで、そのためにそうした役を断り続けてきたんだとか。でも、今回の役柄がそうではなかったので、オファーを受けてくれたらしい。
監督の方でも、考えていたのは、いかにも「典型的なマフィア」という感じからは少し外れる俳優だとのこと。レイ・リオッタみたいな俳優がいいと思ったらしい。
それから、イーサン・ホークに関しても、語ってくれた。
イーサン・ホークは、名前の知れている俳優であるのに、こうしたインディペンデント映画に、積極的に参加してくれる、という。
「イーサンは、熱意を持って演じてくれた。キャラクターも人一倍面白くて、大勢集まったところでは、彼の人を惹きつける魅力や面白いトーク、などでとても楽しい時間を過ごせた」、と言っていた。
そして、ジャスパー役のシーモア・カッセル。
彼は、往年のジョン・カサヴェテス作品の常連。ジョン・カサヴェテスは、自然光を使った撮影が多く、光を調整するのに、ほとんど時間を取らなかったらしい。今のように、光の調整だけで時間を食う、というのを今まで無かったらしく、そのことで監督に文句を言っていたらしい(笑)
彼は役柄が聾唖の役だったので、喋るのを我慢せねばならず、監督が「カット!」と言うたびに、監督のところにやって来て、堰を切ったようにたくさん話しかけてきたんだとか(笑)。

ブルーカラーのサリー・ヘヴァーソンが、これから生まれてくる子供の将来を考え、チンピラギャングの ボス、パーミー・タルゾの金庫を襲う決意を固める。賞金を狙う3人の男たちの人生が悲劇的に交差するなかで、記憶に残る事業を望むタルゾは、スタテンアイ ランドの森を救うキャンペーンを展開する。一方、聾唖の総菜屋の店員ジャスパー・サビアーノは、ギャングのボスによるいかがわしい行動の犠牲者の遺体処理を行っていた・・・
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