真昼の決闘 ▲151
’52年、アメリカ
原題:HIGH NOON
製作:スタンリー・クレイマー
監督:フレッド・ジンネマン
原作:ジョン・W・カニンガム
脚本:カール・フォアマン
撮影:フロイド・クロスビー
音楽:ディミトリ・ティオムキン
ゲーリー・クーパー ケーン保安官
グレイス・ケリー ケーン夫人
ケイティ・フラド ヘレン・ラミレス
トーマス・ミッチェル ヘンダーソン市長
シェブ・ウーリー ミラー
この作品で、’52年の二度目のアカデミー賞に輝いたゲイリー・クーパー。
現実時間と映画の時間を同じ時間においた作品。真昼の決闘に向けて、刻々と時間の流れる様が感じられる。シーンは切り替われど、時計が何度となく映し出され、その“決定的な時間”に向けて緊張感がずっと持続してゆく。このジリジリ流れる時間が何ともリアル感をもたらしていて効果的だ。
自分が挙げた犯人が釈放され、復讐に向かってくるとの知らせを受けて、責任感の強い保安官は、対決しようと町に残ることを決める。結婚式が挙げられ、そのすぐ後だというにもかかわらずだ。
しかし、助けようという町の人が一向に出て来ない。保安官が生き残る可能性が少ないために、わざわざ名乗りを上げようという人がいないのだ。
西部劇、ということで典型的な物語だろう、と決め込み見たその思いは、いい意味で裏切られた。ラストでバッチを投げ捨てる保安官の姿、これは当時の西部劇ファンからしてみたら、驚くような行動だったのではないかと思う。
ここの町の民衆たちは、みんなして、一人の良識ある保安官を見殺しにしようとしていた。大多数の意見が常に正しいとは限らない、民主主義の底にある恐ろしいもの。
リアリティのある時間の経過の描写は見ていて興味深く、単純と割り切って捨てられる西部劇ではないところにも驚きを感じる。おそらく、当時に見た人は、この作品を、もろ手を挙げて大歓迎、というわけではなかっただろうと思う。単純に楽しめる銃撃戦、西部劇の快活さはここではすっかり身を潜めてしまっている。きっと当時にとっては新しい西部劇の潮流だったのだろうと思う。

西部開拓時代、小さな街でウィル・ケインはエミーと結婚式を挙げていた。5年間保安官として勤務したが辞職し二人で新天地で新しい生活=雑貨屋を営む予定だった。ところが5年前に逮捕した無法者フランク・ミラーが出獄し正午に列車で街にやって来る、それは3人の子分を従えてケインに復讐にするためだ情報が入った。ケインとエミーは馬車で旅立とうとする前に、堅い性格のケインは街に戻ってミラーたちと戦おうと決心した・・・
関連記事
-
-
『沈黙』 日本人の沼的心性とは相容れないロジカルさ
結論から言うと、あまりのめり込める作品ではなかった。 『沈黙』をアメリ...
記事を読む
-
-
『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』 アメリカ亜流派のレイドバック主義
80年代の映画を見るなら、私は断然アメリカ映画派だ。 日本の80年代の...
記事を読む
-
-
『湯を沸かすほどの熱い愛』 生の精算と最後に残るもの
一言で言えば、宮沢りえの存在感があってこそ成立する作品かもしれない。こ...
記事を読む
-
-
『ジャクソン・ハイツ』 ワイズマン流“街と人”社会学研究
去年の東京国際映画祭でも評判の高かった、フレデリック・ワイズマンの3時...
記事を読む
-
-
『レッドタートル ある島の物語』 戻ってこないリアリティライン
心の繊細な部分にそっと触れるような、みずみずしさ。 この作品について語...
記事を読む
前の記事: 二つのロザリオ ▲150
次の記事: 唐組『盲導犬』を見て来ました!
コメント