セカンド・サークル ▲43
実はこの日、わざわざ仕事を休んでしまいました。ソクーロフ休暇(笑)・・ってどんな休暇やねん。全く、平日にやってくれちゃって!でも、劇場で見ないと、絶対に迫力は伝わらない。
そんな訳で、『ストーン/クリミアの亡霊』とこちら、二本立てで見て来ました。だって一日限りなんだもの。休むしかないじゃない。@池袋新文芸坐。
ストーリー・・・
久しぶりに実家に帰ったひとりの青年(ピョートル・アレクサンドル)が父親の死を突然体験し、葬儀の用意をしながら父の死骸という物質を受けとめていく数日を描いたドラマ。
90年、アレクサンドル・ソクーロフ監督
この作品、『ストーン/クリミアの亡霊』(’90年)と、『静かなる一頁』(’93年)の三つで三部作。第一作目の作品。
初めにモノクロのシーンが1シーンのみ映り、次に赤い画面になって物語が始まり出す。ドアが赤くボーッと映し出され、全体的に赤い画面から、上からゆっくり下がって来るカメラ。
次に父親の居るシーンへと映ってくるのだけれど、赤は何となくほっこり温かくなるような、レンガ色というか茶色が少し入ったような、何とも心地の良い色だ。
この色は絶対に劇場でないと体験出来なかったと思う(少なくても私のブラウン漢君には無理だった)。・・・とか何とか、無理やり休んだことの理由を見つけようとする私。
青年の不在中に、父親はベッドで亡くなったようだ。死ぬ直前にはほとんどあまり食事を取ることが出来なかったのか、運ぶ時になって、何とも軽く、「まるでミイラのように軽い」と軽々と抱き上げられる死体だ。
青年のこのショックの受けようを見て、彼がどんな気持ちで生前の父に対する思いがあったのか、私たちには計り知れないものがある。
いざこざがあって家を飛び出したのか、それとも、仲は良くやっていて、青年は自分の目的や自活のためにちょうど生家に居なかっただけなのか・・・
それは語られないことなのだ。
だが、彼がほとんど動けないような状態になってしまったこと、号泣したり声を荒げたりしなくて、全く茫然自失になってしまっていることがひしひしと伝わってくる。
お金がないということもその死の理由だったのかもしれない。
死体を洗うのに水も止まっていて使えないため、外に持っていき、雪で死体を洗う。そこには、他の死体もいくつか毛布にくるまったまま、放置されているものがいくつもあるため、寒いその時期に死人がこうして続出する時期なのだということが伝わってくる。その地方には、それほど貧しい人達が暮らしているのだ、ということも。
父親の痩せさらばえた体を洗いながら、涙が自然に込み上げて来るシーン、ここだけが彼が涙を見せたシーンだった。
葬儀屋(ナデージダ・ロドノヴァ)が来て、葬儀を取り仕切ろうとするが、青年は文無しで葬儀代金が支払えず、葬儀屋がやむなく立て替えることになる。
態度が横柄で、死人に対するお悔やみの言葉もなく、冷酷な葬儀屋のこの中年女性は、実生活でも葬儀屋をやっている人らしい。(そこが驚きだ!)
いよいよ父親との対面を最後、というその時に、父親の目を無理やり開ける青年。一瞬、生きているのか、と思えるほどの生気があるような、そんな気がしてこちらはドキっとする。
だが、まばたきをしないその目は次第にみるみる生前のおもかげを失っていく。
死という絶対の無の世界に旅立ってしまったことを思わせるような、そこ(肉体)にはもはや“父親は居ないのだ”というかのように、その表情には“死”が訪れている。
このシーンが、あまりにも素晴らしい。生きている俳優を使ってやっているのだと思う。一瞬ドキっとするような生気を見せるその顔の後に、微動だにせず、まばたきも出来ないシーンが永遠を思わせるような長さで続く。ここでは、“生きていることを思わせてはいけない表情”をしなければいけないのだ。一体どういう撮り方を行っているのか、完全に“死人”を思わせる目に変わり、いつの間にかその目はまるっきり生気を感じない、黒いただの二つの穴に変わっている。私はそのシーン、それこそまばたきもしないで見つめていたはずなんだけど。
青年にとっては、彼の目を覗き込むのは恐ろしかったと思う。父親との最後の“対面”だった。そして、父親が「本当にもう居ないこと」を確認したというか、認識した。・・・
頭で考えるのではなしに、“心で分かる”というのは、いつも別物のように思う。
それも、死者の目を覗き込む、という行為、絶対的に心の目で“見た”というその行為でもあったように私は思う。
そして、青年はまるっきり先ほどの父親と同じように目を開け、まばたきもしないで微動だにしない、という長回しが続く。
こちらの青年も、まばたきを全然しない・・・一体何秒もの間、まばたきをしないシーンが続いただろう。こちらもかなり長い間のことだった(1分は過ぎていたと思う。見ていてこちらまで目が痛くなってきた)。
先ほどの父親役の俳優の表情では、“一瞬思わせる生から、死が訪れたことを思わせる表情”に変わっていくという、俳優の演技の中でもかなり難しいことを行わなければいけなかった。
青年役の彼は、“生きていながらも死人の表情に似せた表情”をする。やはりまばたきもなしで演じなければいけない。
そんな表情をしているうちに、この青年は、いつしか父親そっくりに見えて来た。これまた驚きのシーンだった!
ちなみに、ここで出演した青年、ピョートル・アレクサンドロフは、『ストーン/クリミアの亡霊』の方でも出演していて、『ストーン〜』の方では、「自分は父親をなくして・・・」という台詞がある。
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コメント(2件)
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そくーろふ休暇、いいっすねー
(私はフランス映画祭のクリストフ・オノレ休暇をとりましたー。)
ソクーロフは劇場鑑賞に限りますよねぇ。
文芸坐で2本とは何たる贅沢ー。
これは私、おくりびとより心に響いたわ。(・±・)
へぇ〜、あのおばさん、実生活でも葬儀屋をやっているのですか!
かえるさんへ
こんばんは〜♪コメントありがとうございました。
そろそろかえるさんとお話したいよう〜、なんて思っていた頃でした。なのでとっても嬉しいです!
そうですか、かえるさんはフランス映画祭のためにまたお休みをもらっちゃったのですね!ふふふ
しかし、かえるさんの有給って、残ってましたっけ・・なんて余計な心配をする私。
私はと言えば、実はかえるさんの「何月何日のちぇーっく」を読んで、このソクーロフ休暇を取ることを決め、翌日に課長に休暇願いを出したのでした。
かえるさんに感謝です!
文芸坐は、今後あまり映画鑑賞が出来なくなってしまったら、今よりもっと活用しそうな映画館であります。
音響、スクリーンの大きさ、共に納得の名画座です!
そうなんです、この人、実生活でも葬儀屋をやっている方で、普段は女優さんではないのだそうです。
おくりびとよりこちらですよね!まだおくりびとは見てませんが、DVDで見るつもりです。