145●太陽はひとりぼっち
アンニュイ、って言葉が似合うモニカ・ヴィッティ。
彼女の無表情は、なんて美しいんだろう。
’62年、ミケランジェロ・アントニオーニ
出演:アラン・ドロン、モニカ・ヴィッティ
ストーリー・・・
富裕な家庭で育ったヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)は、婚約者リカルド(フランシスコ・ラバル)との婚約を解消し、別れ話をする。
彼女の母は、素人投資家だ。証券取引所に居り浸る毎日、株式売買の喧騒の中に身を置くのを生き甲斐としている。そんなある日、株の暴落が起こり、経済は一変する。そんな中、株式仲買所に勤める美貌のピエロ(アラン・ドロン)と知り合ったヴィットリアだった・・・。
言葉にすらならないような、微妙な感情の襞(ひだ)というものを、何て上手に描くアントニオーニなんだろう。
文学ではないのだから、言葉でなく、映像で描かれる世界。なのに、ヴィットリアの気持ちが、アリアリと伝わってくるのだ。
冒頭に出てくる婚約者との別れ話、これも何故だろう、彼女の気持ちがすごく分かる気がする。「この人ではないんだ」、というものが漠然と、しかし絶対的に伝わってしまう。
同様に、母親に対してもしかり。彼女にとっては、株の暴落で、母親が財産の大半を失おうとも、彼女にとっては意味のない、単なる数字の世界だ。
「上がっただの、下がっただのって、一体そのお金はどこに行ってしまうの?」
目に見えない金融界の大恐慌を、たったの一言で済ましてしまうヴィットリア。
だけど彼女の方こそ、実は目に見えないものを、求めているのだ。
アラン・ドロン扮するピエロには、彼女の気持ちはまるで雲を掴むよう。なかなか分からない。
笑顔の次に、すぐ無表情に戻るヴィットリア。
分かる、すごく分かる。
アントニオーニって、どうして女の気持ちがこんなに分かるの?という感じ。
女でないと分からないかもしれない。
愛って信じれば消えてしまうものなのかも。言葉に出してしまえば消えてなくなってしまうものなのかも。
だから、ただ、猫みたいにじゃれあっていたいのです。
そんな時だけ、彼女の笑顔が見える。
たわいもなく意味のない、じゃれあいをしている時だけ、そんな瞬間だけを信じることは出来る。
ラスト、一夜明けた後の映像に、二人の行く末がハッキリと描かれている。
建築の途中だったはずの建物が、翌朝彼女が彼と別れた後に見ると、そこには、廃墟が映っているのだ。
「明日もあさっても会おう・・・」
そんな言葉で別れた二人に、もう決して会うことがないだろうという、
寂しさと埋められない何かだけが残る。
このシーンは、私にヘミングウェイを思い出させた。
『何かの終わり』という短編だ。
男と女が、船に乗っている。湖には、虹鱒が泳いでいるのが見える。
だが、二人には、虹鱒は捕まえられない。
船を下りるとそこには、お城のようなものが見える。
「あれはお城かな?」と問いかけると、「いや、廃墟だよ」と答える1シーンだ。
ところで、女にしかきっと分からない作品だったよなあ、なんて思いながら、劇場を後にしたところ、前を歩く男性3人が居て、この映画の話をしているのが聞こえてきた。
「ああいう女の子って居るんだろうなあ、だけど周りの男からすると、全く分からない存在でさ、・・」
「そうそう、あの気持ちすごい分かったよね」「うんうん」(頷く、頷く、頷く)
とかいう会話が聞こえてきて。
「へー!!」なんて、すっかり可笑しく、微笑ましい気持ちになってしまった。
そっかー、男にも分かるのね、アントニオーニの描き方だったら、・・なんて思った。
映画館でバッタリお友達に会ったので、帰りにお茶して帰った。
私は、パニーニを食べた。何となく、韻を踏むからってことで・・
なーんちゃって、くだらないジョークで〆てしまったかな・・・。
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コメント(2件)
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パニーニを鑑賞後召し上がったんですね、キャハ!韻を踏むの、わたしも好きです♪
アントニオーニ、読書が大好きだったそうなので、ヘミングウェイのその短編小説も頭の片隅にあったかもしれないですね!
映画を作る時は好きな作品(絵でも本でも映画でも)を忘れるようにつとめたとも言ってるから、模倣にはならないようにとがんばるアントニオーニの断片が、とらねこさんに発見された、という感じかもしれません
アンバーさんへ
こんばんは〜★コメントありがとうございます。
んーそうですね、自分にとっては、ヘミングウェイの小説で描かれたやり方と同じだあ!それは大発見!というより、
芸術家が象徴として描こうという時、そしてその表現を極めて研ぎ澄まされたやり方でもって、見事に表すときに、同じモチーフを選ぶのを見るのが好きなんです。
たとえば神の怒りという時に雷が用いられることって多いなあとか、嫉妬を描く時に蛇を用いたなあとか、青い稲妻を使われていたなあとか、
偉大な詩人と呼ばれる人って、やっぱこの辺りの表現が素敵なんですよね。