#199.眠れる美女(’05 ドイツ)
この作品、今年’07年の“妄執・異形の人々Ⅱ”の際に、同名タイトルの日本の’68年の作品、『眠れる美女』を見ていました。これ、元々は川端康成原作小説を映画化したもの。その時に、「ドイツで作られたものが、公開されるらしい」と書いたのだけど、その作品がこちらにあたる、というわけ。
ストーリー・・・
15年前に妻と娘を失って以来、孤独と不眠に苛まれている事業家のエドモンド(ヴァディム・グロウナ)は、友人のコーギ(マクシミリアン・シェル)から秘密の館を紹介される。老齢の紳士が密かに通うその館では、何をされても眠り続ける裸体の若い娘と一夜を共にすることができるのだった。半信半疑で向かった館では上品なマダム(アンゲラ・ヴィンクラー)に迎えられ、決して娘に悪さをしたり、起こそうとしはいけないと心得を告げられる。彼に差し出されたのは、子どものような無垢な少女の肉体だった。・・・
’05年、ドイツ。ヴァディム・グロウナ監督・脚本・製作・出演(主演)。
原作はまだ読んでいないのだけれど、この川端康成の『眠れる美女』。川端康成が、こんなに耽美な設定の小説を書くなんて、と驚いてしまったのだけれど、デカダンではなくて、生に実に密着した、生き生きとした生と裸を描く人なんだろうか、と、『伊豆の踊り子』を思い出しながらちょっと思った。
私にはやはり、’68年の日本の『眠れる美女』と比べながら見るのが面白かった。ふとんが敷いてあって、愛想の悪い仲居さんが、お茶を持って出てくるところの日本の描写とは違って、
こちらのマダムは、もう少し地位が高く、お客に対しても割と高慢だ。日本の邦画より、確実に女性が威張っている。それが、ラストで結びついてくるわけだけれど。
そして、いきなり現れる、横たわる裸の若い女の姿。天蓋つきのベッドに、グレーの透ける御簾のようなものがぶら下がり、その向こうは夢のような女体がそこにあるわけだ。
わあっw、やっぱり違うわ、ヨーロッパになると・・・!ドイツ映画なのに、とても官能的。
やはり、いくつになっても裸はいいもんだのぅ〜っていうところは一緒だけれど。
ただ、’68年の日本の方では、眠れる美女の肉体にいたずらをしようとはしなかったのに対し、こちらの主役の方は、触ったり、自分も裸になって横たわったり。
私は、日本版の方で、もちろん、それ以外に、エピソードも随所随所で違うし、設定も違う(こちらの主役の老人は家族がいないという設定になっているが、日本の方では家族がいて、その家族の話がサイドストーリーになっている)。
簡単に触ったりいじったりする場面、これがこのドイツの作品にあるために、日本の作品の方で感じた印象と少し違うようだ。
日本の作品の方では、若い生娘のあまりに純粋な美しさに、憧れを覚えると同時に戦慄を覚え、
死と生とが対峙した形になって、老人を打ちのめす。そしてやたらと思い起こす、過去のまざまざとした述懐。こういう話だったはずだ。
簡単に触れたり口に含んだりが出来てしまうと、「したいけど、肉体的に出来ないだけ」に思えてしまって、文学的叙情性が幾分薄らいでしまうようだ。
エロティシズムをほとんど感じなかった邦画とは違って、こちらの方がずっと官能的に仕上がっている。
こちらの方では、生と性への執着となって、裸の肉体にしがみつくようだった。
なので、終盤近くに、その眠りが死を連想させ、突然混乱を覚えるという辺りでは、それまでの描き方と少し食い違いが生じ、突発的だと思ってしまった感じは否めない。
しかし、老人にとってやはり、若い娘の裸体というのは、夢の結晶のようなものなんだろうか。
プロの娼婦のように、出迎えて、無粋な視線で見つめたり、無駄口を叩く代わりに、ただひっそりと眠る若い娘。
画だけで十分官能的なのだ。
隣の若い男性は一人で見に来ていたようだったが、途中でモゾモゾ動いて、気になって仕方がなかった。(そして途中でトイレに行った。)
ああ、裸で横たわる女性って美しいな。
しかも、見知らぬ女だなんて。ソソるんだろうな。
最後に、ミステリアスな終わり方をするところが、面白かった。もう少し分かりずらく、官能的になっていれば言うことはなかったんだけど、少しわざとらしかったかな。
・眠れる美女@映画生活
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コメント(10件)
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『眠れる美女』
魅惑の館へようこそ。
15年前に妻と娘を自動車事故で亡くした事業家のエドモンドは、友人からある秘密の館を紹介される。文豪、川端康成の晩年の代表作であり、三島由紀夫が「熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品」と絶賛した同名小説を、俳優とし…
ぐーてんあーべんと。
とらねこさんは、邦画もご覧になったのですねー。
原作はやはり畳に布団なんですね。
そうそう、こちらのドイツマダムは客に対してやけに高飛車な感じでしたよね。
ま、それが不思議で謎めいていておもしろかったんですがー。
日本の方は、一切触れたりもしないんですかー?
つんつんくらいも?それは忍耐強いっす。
ドイツ人と日本人の性質は律儀なところなんかが似ているなんて聞いたことがあるけれど、こういうアプローチだとやっぱり西欧と日本はまるで違うものですねー。
眠れる美女
妻子を事故で亡くしてもうかなり経つというのに、老齢のエドモンド(ヴァディム・グロウナ)はアレは自殺だったのかもしれないと言う思いの囚われ、人生に絶望を感じていた。 そんな彼に、友人コーギ(マクシミリアン・シェル)は、とあるマダム(アンゲラ・ヴィンクラー)の…
日本版では、“イタズラしなかった”んですね!!
この一線を越えるか超えないかって、かなり違う印象を与えると思うので、一層原作が気になってきました。(でも、多分読まないけど 苦笑)
ドイツ人全体に受け入れやすくするための設定変更なのか、脚本も主演もやったヴァディム・グロウナ監督自身の解釈なのか、そこら辺も気になるところです。
>隣の若い男性は一人で見に来ていたようだったが
哀生龍は、両側を1000円で見られる年代の男性に挟まれていました。
1人が、落ち着きなげにカサカサとチケットの半券を弄るのが、気になって気になって(苦笑)
かえるさんへ
こんばんは☆コメントありがとうございました。
ドイツのマダムは、単なる「雇われ人」ではなくて、権限がもう少しあったような感じでした☆
日本の方は、少しも手出しがないんですよ。
その変わり、過去を思い出すエピソードがすごくたくさんあって。
それと家族の話がサイドストーリーとなって、性にまつわるいろいろな話が交錯するところが、日本版の方の面白さだったのです。
哀生龍さんへ
こんばんは☆コメントありがとうございました。
>この一線を越えるか超えないかって、かなり違う印象を与えると思うので、一層原作が気になってきました
そうなんですよ!日本版を見た時は、欲求不満に陥ったのですが、後からいろんなことを考えることが出来て面白かったのです。
“裸を目にして、エロじゃない何か”というものがこの物語の核になっていたのだということを、ドイツ版で簡単に手を出してしまう姿を見て、確信したのでした。
>脚本も主演もやったヴァディム・グロウナ監督自身の解釈なのか
ぶっちゃけ、自分はこちらだと思います(笑)
この監督はまだまだ現役ってことで(爆)
こんばんは。
そうですか・・・日本版は見たくないなあと思ったのですが、ちょっと興味が沸いてきた。笑
原作を読んでみようかな。
んー、でも私には洋館のイメージがするのって、やはり「眠れる森の美女」的な思い込みがあるのかも;
その日本版の上映当時では、あからさまに悪戯しちゃうと違うジャンルの映画館で上映とかになってしまったかもですねえ。笑
眠れる美女
香り立つ究極の美。熟れすぎた果実が枝から落ちる前の、最期の至福のひと時・・・
シャーロットさんへ
おはようございます!コメントありがとうございます。
>洋館のイメージは『眠れる森の美女』
そうですよね〜。画的に、洋館に眠る美女というのが、なんとも美しかったですね^^
>日本版の上映当時
裸が出てくるだけですでにもはや違う上映館になっちゃってたかもですね(笑)
日本版は、サイドストーリーがてんこ盛りで、全く別物のお話なんですよ〜。
自分の娘の話もあったりして。奪われる女性側の気持ちになって自分の過去を反省したりとかするんです(笑)
眠れる美女:老人の夢 ユーロスペース
裸の若い娘が何人も出てくるのに、このうすら寒さはなんだ。 タイトル:眠れる美女 監督:ヴァディム・グロウナ 出演:ヴァディム・グロウナ/アンゲラ・ヴィンクラー/マクシミリアン・シェル 製作:2005年独 原作:川端康成「眠れる美女」 あれは事故ではない。 あのころ…