※7-8.『ハンニバル・ライジング』上・下
1941年、リトアニア。ナチスはバルバロッサ作戦を開始し、レクター一家も居城から狩猟ロッジへと避難する。彼らは3年半生き延びたものの、優勢に転じたソ連軍とドイツ軍の戦争に巻き込まれて両親は死亡。残された12歳のハンニバルと妹ミーシャの哀しみも癒えぬその夜、ロッジを襲ったのは飢えた対独協力者の一味だった。・・・(文庫あらすじより)
トマス・ハリスというだけで、作品を心待ちにしている全世界の読者は、数多くいることだろう。
『レッド・ドラゴン』、『羊たちの沈黙』、『ハンニバル』の前三作と比べてしまうと、あまりに見劣る作品になってしまったようだ。
映画の方はというと、なんだかあまり芳しい評判は聞かないにしろ、「それは映画だからでしょ」なんて一言で片付ける、私のような、作品毎にこの作家を追っているファン、というものが存在しているのだ。
にもかかわらず、期待しすぎると少しガッカリしてしまう。これじゃあ、映画が評判が良くなくたって、仕方がないと思う。
映画見に行くの、やめちゃおっと!本読んだことだし、DVDでいいや(←これ、私が昔からよく使う手なのよね)。
日本趣味に深く傾倒していることに関しては、別に構わないにしろ、この日本趣味は、今までのシリーズに全然出て来ない上に、この作品が、ハンニバルの“誕生物語”なのだから、・・・
前3作との繋がりを持たせた作品にすべきだったように、思うんだけど
作家になって以来、ハンニバル・レクターシリーズしか事実上書いていない、筆者、
彼を有名にも大金持ちにもしたのは、このレクターというキャラクターだと言える。
『羊たちの沈黙』の、あの衝撃は、いまだに忘れられないし、この作品こそ、サイコスリラー・ミステリーというジャンルの魅力を、全世界に座巻したと言える作品だった。
AFI(American Film Institute)の、アメリカ映画生誕100周年記念の、アメリカ映画ヒーロー&悪役ベスト10によると、歴代の映画で、ヒーローベスト6に、『羊たちの沈黙』のクラリス・スターリング(ジョディ・フォスター)が。
そして、栄えある悪役第一位に輝いたのが、同作品のハンニバル・レクター(アンソニー・ホプキンス)
このシリーズのファンとしては、とても嬉しいものがあります。
そうしたことから、作者の彼にとってすら、ハニバル・レクターに対する愛情タップリになってしまうのも、もはや、仕方がないことだったかもしれない。
それまでの『レッド・ドラゴン』にしろ、『羊たちの沈黙』にしろ、ヒーローは存在してた。それに対抗する存在としての、ヒールの、圧倒的な存在感。
物語を完全に引っ張っているのは、物事に翻弄される、ヒーローやヒロインではないのだ。この著者にとっては。
だが、前作『ハンニバル』は、ちょっと違っていた。
完全なるピカレスク小説の誕生だった。
悪役であるハンニバル・レクターが、堂々と呼吸し、警察をケムに撒いて、堂々と人殺しをする姿。それが、あやうい魅力を放って、圧倒的だったこの作品。悪の華が輝いていた。
ここに感じられるのは、作者のハンニバル・レクターに対する賛歌だった。
映画より、本を読んだ人には、分かってもらえると思うが・・・。
そして、本を読んだ人には、このリドリー・スコットが、ハリウッドの製作陣に、説得されるか、何かして、小説のラストに改変を加えられちゃったのが、この『ハンニバル』っていう映画だったのだ。
それとはっきり看て取れる、顕著な違いというもの。それは、この悪役、ハニバル・レクターに対するこの作家の愛情。
T・ハリスの暴走は、この時すでに始まっていたのだと思った。
だけど、この前作が、ピカレスク小説として、イタリアやパリを舞台に(“ピカレスク小説”と言えば、もとはスペインが発祥の地。)、ヨーロッパの文化の香り高いムンとした熱狂にくるまれた、この殺人者が、静かに荘厳な雰囲気の中、闇の中に縦横無尽に闊歩する姿が、素敵だったのだ。
あらゆる文化に詳しい、その教養の高さがまた、魅力の一つでもあった。
それにしても、イタリア旅行の際に、この『ハンニバル』に出て来た広場のシーンがイタリアのロケで使われているので、添乗員さんが「ここは、『ハンニバル』に出て来たところですよ〜」、なんてノンキに言ってたけど、私は、
「おいおい、それは人を殺したところやんけ」、なんて思ってた(苦笑)
ま、いいんだけどさ・・・。この小説で、イタリアに行きたくなった私だったし(←やっぱり!)
さて、この小説、『ハンニバル・ライジング』に戻ると。
この怪物の生成過程となったこの子供の頃の逸話が、それほど十分な葛藤に包まれた物語だった、とは言えないようだ。
ここでは、ハンニバル少年の大きな苦しみによって、その心から、姿を変えてゆかなければいけないはずの物語だったのに、心に大きな傷を負うことになった、という事件そのものが、なんとも拍子の抜けるイマイチさでしか、描けていない・・・としか思えない。
私は、これは、作者の愛情がゆえんであるように思った。
前作で、殺人者の大いなる飛翔を描き切ってしまって、それから7年。
しかし、彼にはすでに、ピカレスクの悪役ハンニバル・レクターを、もはや愛情のこもった目でしか見られないのかもしれない。
とは言え、今回の日本趣味は、前作のルネッサンスを初めとしたヨーロッパ文化において、デカダントな雰囲気に包まれていたのと呼応するかのように、
この作品において“紫夫人”という、美しくしっとりと落ち着いた日本女性の向こうに、日本文化の薫り高い感性がそこにある。
それは冒頭にいきなり写真つきで載せられ、私達の度肝を抜いた、宮本武蔵による水墨画、『枯木鳴鵙図』がそうだったように(宮本武蔵って、絵描く人だったなんて知らなかったし!)。
“紫式部”や“紫の上”を感じずにはいられない、その名前からして、高級感漂う、美しい貴婦人の雰囲気漂う、この人を描く時は、とても崇高な印象を感じる。
そして、ハンニバル少年が、この紫夫人にスズムシを送るシーンはなかなかだった。
この少年の残された唯一の良心、人間的な心を、この紫夫人とこの“スズムシ”になぞらえ、シンボリックに描いている。
「冬までしか生きられないスズムシの、透き通るような音色。」
「僕の心に、歌うことを教えてくれたのはあなただ。」
と、一時言葉を失ったハンニバル少年がこう言う。
こうした静かな雰囲気はまるで、先の水墨画を思わせる。きっと、日本人にとってより、欧米の人にとって、このエキセントリックな感じが、何とも魅力に感じるに違いない。
2007/05/14 | 本
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コメント(14件)
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「ハンニバル・ライジング」 トマス・ハリス
7年ぶりのレクター物の新刊です。
このシリーズって、
かなりキモいって、
解っているのだけれど、
怖い物?見たさで、
つい読んでしまうのよねー。
全体な感想は、確かにキモいシーンはありますが、
いままでのシリーズに比べると、わりと軽い感じでした。
物語自…
【本】ハンニバル・ライジング 上下巻
『ハンニバル・ライジング』(上下巻) トマス・ハリス 新潮文庫随分昔。。。多分、映画『羊たちの沈黙』が話題になる前に、小説『レッド・ドラゴン』を読んだ。かなり面白かったので、それ以後トマス・ハリスの作品は全て読んでいる。だが、私が面白いと思…
とらねこさん、こんにちは!
TB&コメントありがとうございました。
私はトマス・ハリスは好きではない・・・なんて書きましたが、『ブラック・サンデー』を含め5作品を読んだりしている捻くれ者です(笑)それは、好き・嫌いは別として、トマス・ハリスが何かトテツモナイ物を読ませてくれる・・・という期待があったからで、『レッド〜』『羊〜』は身震いする程面白かった記憶があります。
筋違いな事を申し上げるかもしれませんが、トマス・ハリスが小説で扱ってきた犯人には、それぞれモデルのようなものがいたと思います。(犯行&生い立ちなどにおいて)しかし、ハンニバルは作者自身が生み出した稀代の魅惑的な人物で、その生成過程には、何か特別なものを・・・と考え過ぎ、とらねこさんも指摘されているように、作者のハンニバルへの愛情によって、今回の締まりの無い誕生秘話が生まれたのでは・・・と意地悪な見方をしています。
(しつこく続き・・・)
今回の物語で辟易したのは、あまりにも繰り返されすぎた記憶の描写でした。私の受け取り方が幼稚なのですが、ハンニバルがトラウマによって怪物になった・・・では、そこらの異常者と大差が無く不満に思いました。
ところで映画ですが、ギャスパー君が美しかったので楽しめました。ハンニバルとして考えると???な映画ですが、美男の狂気を愛でるにはなかなか良かったですよ(笑)
長々と失礼しました〜♪
「ハンニバル・ライジング」読了
上、下巻 トマス・ハリス (著), 高見 浩 (翻訳)
ハンニバルシリーズ第4弾。前作から7年ぶりの最新作。
「羊たちの沈黙」が傑作だったので、それ以降シリーズはかかさず読んでます。
『ハンニバル』のラストはとても衝撃でしたねえ(映画では残念ながら変更されてました…
とらねこさん、おはようございます!
コメントどうもありがとうございました!
トマス・ハリスのハンニバルシリーズは、ほんと読みごたえがあります。
ヒーローにクラリス、悪役1位はレクターは納得だし、うれしいですね。
前作の『ハンニバル』は結構気にいってます。
映画でラストを変更されたのは、とても残念だった・・・
とらねこさんは、あのイタリアの広場にいかれたのですね^^
うらやましいです。
今回のライジングは、どうも説明不足という感じがしますね。
とらねこさんのいわれるように、作者のキャラに対する愛情が強くて、一歩踏み込めなかった気もしますね。
映画化については脚本をハリスが書いているので、原作にほぼ忠実ですが、それが逆効果だったかもしれないなあと(個人的推測)
映画観られたら、また感想を聞かせてください!
なるほど!作者の愛情の現れだったのかもしれませんね〜。
私も、なんだか今回の作品は、ちょっと中途半端な感じで
いままでの作品のような強烈さは感じませんでした。
ハンニバルは、紫夫人の手を取らず、人ではない魔性を自ら
選んだというより、私には生まれながらの魔性の持ち主だという
イメージが強いです。
由香さんへ
こんばんは☆コメントありがとうございました。
そうですね、この作品はちょっとイマイチでしたよね。
おっしゃる通り、きちんとした骨太な描写になっていなかったと思います。
トラウマが原因で、ノーマルな人とは違う精神構造になってしまった、と描くのにしても、あまりにいろいろと都合が良いというか。
デモや社会現象になりあっさり放免・・・というのもなんだかちょっと・・・でしたよね
それから、由香さんのおっしゃる通りレクターの位置するところの特異さは、モデルがいない、という点にあるのでしょうね☆
ギャスパー・ウリエル、カッコ良かったですか☆
少年期は別の人がやってるんですよね?
心配なのは実は日本描写のところだったりするんですよ・・・嫌な予感がします^^;
『ハンニバル・ライジング』
オアゾの丸善でハンニバル・レクターの若い頃を描いた新作が出たのを発見した瞬間、
もうちょっとで買うところだった。
翻訳がすぐには出ないだろうと予測したのと、実に面白そうだったから。
しかし思い出した。「ハンニバル」のときのことを。
原書を買ったはいいが…
TB&コメントさんきゅーでした。
訪問遅くなりました。
>前3作との繋がりを持たせた作品にすべきだったように、思うんだけど
ライジングの後に、レッドドラゴン以前のハンニバルを描いた作品が今後出ることを希望&予想します(笑)
この小説の完成度の高くないことも、何か意味があると、勝手に思うのはファンだからでしょう(苦笑)
ピカレスクというと
=フランス発祥
=悪いやつの「金儲け」小説
という誤ったイメージを持っていたので、勉強になりました。
アイマックさんへ
初めまして、コメント丁寧にありがとうございます〜☆
アイマックさんも、このシリーズ、昔からのファンだったのですね!私もですw
私も前作『ハンニバル』好きでしたー。
ラストが変えられてしまったのも、残念でしたよね。
まあ、ハリウッドだから仕方が無いのかな、と思いますが、原作ファンはガッカリでしたよね。
今回の作品は、もう少しでしたよね。
>映画化については脚本をハリスが書いているので、原作にほぼ忠実ですが、それが逆効果だったかもしれないなあと
私もそう思います・・まだ見てないですが、どうやら評判が良くないみたいですし☆
他の人が脚本書いてた方が良かったですよね。
ルナさんへ
こんばんは☆こちらでは初めまして!
お返事が遅れてしまい、すみませんでした
こんなにT.ハリスが中途半端な物語を書くとは思わず、ビックリしましたね〜。
>人ではない魔性を自ら選んだというより、私には生まれながらの魔性の持ち主だというイメージが強いです
同感です!怪物になる前なんだから、うんと人間ぽくてもいいのに、最初から魔性なので、かえって面白くないんですよねー。
それを考えたら『カジノロワイヤル』が、なんてうまく出来ていたのだろうと、今再確認してたりします。
ふるちんさんへ
こんばんは☆コメントTBレスありがとうございました。
>レッドドラゴン以前のハンニバルを描いた作品が今後出ることを希望&予想します
ですかね〜^^;
うーん、まだこの路線で行くんでしょうか・・・?
過去に戻ってそこから繋げていくなんて、『スターウォーズ』みたいですね☆
ピカレスクものって私好きなんですよね。
しかし、今時“ピカレスク”なんて言葉を使うのは、いないかもしれません・・・
狩猟ロッジでミーシャ殺害の一味を知る
薬物により妹ミーシャを殺害した一味の手がかりが、レクター家の狩猟ロッジに残されていることを知ったハンニバルはリトアニアに戻り、一味の認識票を発見する