112.夜叉ケ池
’04.10.14.〜’11.14.まで、東京・大阪・愛知で行われた舞台劇。
泉鏡花の原作『夜叉ケ池』のリメイクを、三池崇史監督が演出、脚色は永塚圭史、美術に会田誠が担当。
古くて新しい、実験的な新古典。
ストーリー
三国ヶ岳の夜叉ケ池のほど近くに、ひっそりと棲む、新婚夫婦の百合(田畑智子)と晃(武田真治)。ここ最近水不足で、人々の生活が苦しくなり、村の人々の不満は徐々に増しつつあった。
もともと東京者である晃がこの地を離れないのは、ここにある鐘つき堂のためだった。鐘は明け六つ、暮れ六つ、丑三つの、日に三度つかなければならないもので、先代の鐘楼守である百合の父親であるが、死ぬ間際に晃にこの役割を残して逝ってしまったのだ。
この鐘には伝説があり、鐘をつくのを人々が怠らない限り、水神である夜叉ケ池の白雪姫(松雪泰子)が水の氾濫を行わず、人々の暮らしを守る、ということ。
だがこの話は大昔の人間との約束事であって、村の人々は半ば伝説化したこの話を、だんだんと忘れてきていた。
一方、白雪姫は、山一つ向こうの千蛇ケ峰に棲む、守り神に恋をして、一目逢いたい気持ちを募らせていた。だが村の人々との掟により、この地を離れることはならず、辛い気持ちを抱えたままこの地に留まらざるを得ない。
人々は水神との約束をとうに忘れているというのに。・・・
妖怪の世界と人間の世界が交錯する。自然と人間との対比が描かれていて、人々が文化を築く中に、自然に対する思いを忘れてしまい、その繋がりが切れかけているのだ。
人々は自然への感謝の気持ちを忘れかけている。
これを、“鐘”という時を知らせるもの、人間の暮らしに欠かせない、象徴的な鐘に中心を据えて描かれている。
これら人間と自然界との繋がりを唯一の“結界”である鐘つき台、これが壊され、水の氾濫が起こるときの描き方は、寓話的であり、かつ神話的でもあり、圧倒的な物語性となって、私達の心に訴えかけてくる。
鏡花の原作であるこの小説は、’79年に篠田正造監督の同名タイトルの映画『夜叉ケ池』がある。私は未見だが、白雪姫の役を坂東玉三郎(五代目)が演じた、とのことで、さぞ美しい女神であったのだろう、と思う。
約束を忘れた人間たちなどを放って、恋に生きたいと願うとする女神は、人間世界でひっそりと愛し合う百合と晃、との対照性により、とても胸を打つものとなっている。
左、DVD用の幻想的タッチの絵。とっても綺麗です。
こういった神話的なテーマを描いていながら、それを現代の我々にアプローチをさせる、三池監督の演出の手腕は、舞台初挑戦でありながら、とても面白いものだった。
晃役の武田真治、昔の同胞である文学士役、山沢役の松田龍平など、若手の役者を使いながら、丹波哲郎や、きたろうなど、そこに居るだけで存在感を放つベテランの役者たちも上手に起用。萩原聖人や松雪泰子なども、とてもいい役どころをしてもいる。
そして何より、この鏡花原作の神話的世界が、何より“笑い”に転じているのに、一番の驚きを禁じえない。
随所随所に盛り込まれる笑いの要素。
この笑いのセンス、はっきり言って、“鏡花のリメイク”ではもはやない。
三池監督の笑い、彼の持ち味である。
妙なジョークと、そのおかしなタイミング。
こういうギャグは、正直、若い人でないと分からないと思う。もしくは、センスが若くないと、分からない。
世界観の圧倒性もまた、見事だった。強烈な赤の印象を植え付けてのちの、水の妖怪縁者たちの青の世界との対象性。
これらの役者が、村の人々との一人二役を演じているところなど、とてもユニークで思わず唸ってしまう。
きたろうなどは、どっちに出ていてもとても強烈な個性を発揮している。
自分は、この人がこんなに凄いとは、すみません、知らなかったです!
舞台劇って、こんなに、役者一人ひとりの演技が、動きの一つ一つが、際立って感じられるのでしょうか。・・・
舞台ならではのセリフ回し、立ち居振る舞い、というものに、本当に心を奪われてしまった!
特に、武田真治。はっきり言って、ナメていました!
ものすっごーーーく、カッコ良かった。ゆらっと動いて腕を振り回し、目を輝かせて話し、全身全霊の演技で“魅せる”。
思わずヨダレが・・・なんて、なんて、素敵なんだろう!!
美しい、動きが美しい。カッコよすぎ!ああいうのこそ、カリスマと呼ぶべきなんでしょうか。今まではただ単に、顔がカッコイイだけの人だと思ってたけど、とんでもない。
松田龍平も、すんごい良かった。この存在感、並じゃないですね。やばい。
このときの松田龍平は、三池作品に初出演だったとのことですが、とても光っていた。
三池監督の後の『46億年の恋』で、ミニマムな舞台設定のようなセットが組まれていて、まるで『ドッグビル』のようだ、と思ったが。トリアーではなく、もともとこちらの『夜叉ケ池』で培われていたもの、と言えるのかも、と思ったり。
古典文学を、実験的な手法で生まれ変わらせ、コメディタッチで若々しい作りにしながらも、テーマはこぼさずに描かれていた。三池監督は、こんなに新しいことが出来るのか、挑戦的なこの芸術に対する姿勢が、とってもカッコ良く思えた。
2006/11/03 | 映画, :三池崇史(今月の三池さん), :崇拝映画
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